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2019/12/19

日本のバー誕生の地 横濱の話⑦ 1860年代のタバーン


 1860年代初頭の幕末、横浜では "ドロンケン"がふらつき横浜見聞録誌にその姿が描かれる。

ドロンケンとは、オランダ語で「酔っている」という意味で、欧米系の外国船水夫(マドロス)の酔った姿をドロンケンと横浜市民は表現していた。

今回は街のタバーンでどの様に酒が飲まれていたのか?カクテルは飲まれていたのか?
1860年代のタバーンを調べる事にしました。

下の絵は横浜開港見聞誌に描かれた本町一丁目大通りのドロンケン。


1862年から欧米水夫のための街酒場が横浜に設けられ、1863年からはかなり繁盛し、1864年には4軒、1868年までにタバーン(街酒場)が10数軒。

なにかとタバーンを利用したドロンケン達は騒ぎや横浜市民に暴行を加えるなど事件をおこしてあまり良い話しが書かれていないです。

タバーンは土地転がしで財を成していたアメリカのユダヤ商人ラファエル・ショイヤー氏の土地又貸しにより酒場など誕生していった。
ショイヤー氏は、幕府に自分の家を建てるまで一時的に日本家屋を使いたいと願い手に入れた土地を小さく区切り外国人に又貸しタバーンなども開店して行きました。

ショイヤー氏は、オランダ人。ポルトガル人、フランス人、アメリカ人、イギリス人とあらゆる外国人に区切った土地を貸しタバーンが軒を連ねました。
日曜日や祭日には酒場で騒ぎの多くが見られ、この辺りをタバーン目的て使わせたショイヤー氏には非難の声も多かったそうです。

横浜開港見聞誌に1862年オランダ人が経営するタバーンも描かれており、日本人が外国人に酒を売っている。


下の絵は1人の外国人が酒を入れる茶碗を指し一番上の棚の酒を注げと言い、タバーンの日本人店員は上の棚の酒を注ぐ。更に2、3杯飲み、外国人が金銭を支払うも足りず安くしろと交渉したとかで、日本人店員が外国人の腕をつかみ英語で書かれたタバーンの販売規則を指し怒っている様子。


棚の一番下が安酒で上にいくにつれ価格設定が高いものが並べられていた様子も文章に書かれています。
上段の酒は筒茶碗一杯で金一両一朱、中段で三分一朱だという。
金一両は現在でいう約75000円、一分は約20000円、一朱は約5000円なのでかなり高い。
街のタバーンでも現地日本人にはかなり高価でとても行けない酒場だったと思われます。

またショイヤー氏の話しに戻ります。

1860年2月24日に建てられた日本初のホテルで日本初のバーが入っていた横浜ホテルが一時閉鎖直前となる1862年9月辺りからは、横浜ホテルの所有権はショイヤー氏のものになっていました。


他に本村通りに4ヶ所、山手に2ヶ所などもショイヤー氏が借り受けていたようです。

ショイヤー氏は、気性の荒い人でした。
1861年11月23日よりA.W.Hansardにより発行された英字新聞ジャパン・ヘラルドにショイヤー氏が刀の様なものを手にして殴り込む様子がジャパン・パンチの風刺画で描かれていてニュースになっていました。



ショイヤー氏は英字新聞「オクスプレス」を1862年から発行しており、どちらが先に最初の新聞を発行したのかなどで争ったりようです。


他にジャーディン・マセソン商会に勤める中国人の頭にピストルをつきつけたり、船荷の積み下ろしをしている労働者に対してトゲ付きの山椒の木のステッキで足を打ちつけたり
としていたといいます。

ショイヤー氏は、横浜外国人居留地のアメリカ人借地人の代表責任者となっていましたが、1865年8月21日にイギリス領事館法廷室での会議中にて急死する。

ショイヤー氏65歳での他界でした。

ショイヤー氏が所有していたタバーンの長屋は、幕府とアメリカ領事館が協議した結果、土地を神奈川の役人に返還となり外国人に貸さず英語学校増築が提案され土地の一部に学校が建てられ開設されました。
他に取り壊された元ショイヤー氏の長屋の土地には、木戸門などが建設された。

しかしショイヤーが貸し出しタバーンが廃止された後も港周辺には飲食店が増え、相変わらずドロンケンが出没し騒ぎを起こしていたといいます。

オークションで購入した横浜開港見聞誌をじっくり読んでみるとミックスドリンク?らしきものが文章に登場している。

次回⑧は、横浜開港見聞誌に書かれたカクテルらしきものを紐解きます。