ページ

2020/05/30

日本のバー誕生の地 横濱の話⑫ 横浜新田競馬場のバー


 明日は日本ダービー開催ですね。
本日は、日本競馬誕生の歴史と横浜にあった競馬場でカクテルが楽しまれていたお話です。

1860年代の横浜の競馬場にBARの存在がありました。
当時、横浜の競馬場のバーではカクテルなどはサーブされた記録は無いのか?
日本初の競馬場に遡りバーの記録はあるのか調べる事にしました。

1860年9月1日、日本初の競馬場会は西洋人により開催されました。

開催は本村(現在の元町)で、当時は外国人居留地ではなく日本人の居住地であった場所でした。
山手近くの砂地に半マイルのコースがつくられました。
細かな情報が無く、この年にバーがあったかは不明です。

また1861年にも横浜の羽衣町の厳島神社裏辺りでも競馬会が開催されたと言われています。

1862年、仮設競馬場「横濱新田競馬場」が完成します。
場所は現在の横浜中華街にあたります。

1862年5月1日・2日に春の競馬場会が開催され、馬主は日本初のホテルとなったヨコハマ・ホテルのオーナーであるフフナーゲル氏をはじめとする24名が集まり、エントリーした馬は40頭でした。
レースは2日間で7レース開催されました。




秋の競馬会は10月に開催されました。
横濱新田競馬場での競馬会は、この年の2回のみ開催でした。
春の競馬場会が終わり、秋の競馬場会の準備が進められました。
競馬場を運営するためのヨコハマ・レース・コミッティが組織され、8月に組織の母体となるヨコハマ・レーシング・クラブが立ち上がります。
この組織はやがて日本レース・クラブとなり、現在の日本中央競馬会の源流とされています。

秋の競馬場会は10月1日から2日に開催されました。
馬主は18名で25頭がエントリーし、この時の騎手は横浜外国人居留地に駐在する各国の軍人となりました。
2日目5レースの横濱賞ヨコハマ・ダービーは、秋一番のレースとなったそうです。
このレースでフフナーゲル氏が所有する日本馬の "Batavia" が大活躍したそうで、終始リードを開き圧勝し、ゴール後に騎手が手綱を引いても止める事が出来ず更に2週したほどの暴れ馬だったそうです。

競馬場にはグランド・スタンドがあり、飲食物を提供する屋台BARが設けられ、酒類もサービスされていました! 
その屋台を任されていたのが、なんと!横浜ホテル内にあった日本初のバーで酒番を務めていたイギリス国籍のジャマイカ人バーテンダー、ジェームズ・マコーレー氏でした!
残された資料によると、マコーレー氏のバーで、レース結果の不満から軍人のストレスとなり沢山のカクテルが飲まれ、喧嘩が起きたといいます。


競馬会終了後は、イギリス公使館で夕食会が開催されましたが、イギリス外交団と外国人居留民の間で再び喧嘩が起こった事で酒が進み、この日は1日で200杯ほどのカクテルが飲まれたという記録が書かれていました!
この時に飲まれていたカクテル名は書かれておらず不明。


秋の競馬会終了後は、横濱新田競馬場は廃止となりました。

この時代に横浜でカクテルが楽しまれていたという貴重な記録です。

日本初の公式競馬場で有名な「根岸競馬場」は、1866年8月から工事がスタートし12月に完成となりました。

根岸競馬場でのバーの資料は現段階自分の調べでは出て来ていないです。

次回は、1860年代に横浜でハイボールが飲まれていた話しです。