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2020/07/07

日本のバー誕生の地 横濱の話⑬ ハイボール


今回は日本のハイボール(蒸留酒のソーダ割り)の始まりを追ってみました。

ハイボールらしきものが飲まれた古い記録は、なんと横浜の遊廓。

1860年、幕府は横浜の沼地を埋め立て約15000坪の遊廓を建てました。

この場所は港崎(みよざき)と呼ばれていた事から「港崎遊廓」と名付けられ、場所は現在の横浜スタジアムである。


江戸の吉原を模した場所となり最大の遊女屋は「岩亀楼(がんきろう)」と呼ばれた。

岩亀楼は、和洋折衷な空間で和室にシャンデリアがあり、外国人向けの異人遊興揚屋で、出来たばかりの頃の遊廓の遊女は多い時で役200名在籍、数年後には400名以上在籍していたといいます。

港崎遊廓は、1866年10月20日に火事で焼け落ち、10年後の1876年には港崎遊廓跡地は日本初の様式公園となり、今の横浜公園となる。

写真下は横浜公園の灯籠で、妙音寺から横浜市に寄贈されたもので、岩亀楼の名が刻まれています。




横浜公園には水琴窟が残され、これは港崎遊廓の異人のおもてなしに繋がっています。


ハイボールらしき記録は、1861年に岩亀楼にて開催された英国守備隊主催の英国艦隊横浜入港歓迎会にて登場しました。



守備隊幹部達は岩亀楼の大広間に集まり、あぐらをかいてシガーを楽しみながらブランデーソーダ(B & Sとも呼んだ)を飲んでいたといいます。


当時イギリスではブランデーのソーダ割りが人気でした。
ビクトリア朝時代のイギリスでは、ブランデーは心を癒し、ソーダは胃腸の調子を整えるとされておりブランデー・ソーダは、シャンパン替わりとしても飲まれていました。


1864年3月28日には、中国から横浜へ進出して来たファー・ブラザー商会のソーダ製造を切っ掛けに、横浜では蒸留酒のソーダ割りが飲まれて来たともされています。

この頃ウィスキーも輸入されておりましたが、居留地の外国人にはウィスキーよりブランデーが好まれ、ソーダ割りにはブランデーが選ばれた。

この頃の酒類輸入の広告を見るとウィスキーよりブランデーが上にリストアップされおり、ブランデーの人気ぶりがうかがえる。


写真上は1865年のジャパン・ヘラルド。
ブランデーの銘柄に、オタール、マーテル、ヘネシーも書かれ、その下にウィスキーの銘柄が続きます。


東京でハイボールらしきもの(蒸留酒のソーダ割り)が飲まれ始めるのは1872年。
この年に日本初となる蒸気機関車の駅「横浜駅(現在の桜木町駅)」が誕生し、品川駅等のラインが仮開業し、後に新橋(汐留)駅から横浜駅がつながり、洋酒が東京へと一般的に流通される様になったといいます。



様々に語られるハイボール説。
有力なアメリカ鉄道ハイボール・シグナル説。

ハイボールと呼ばれる様になるのは、アメリカの鉄道敷設ラッシュとなる1869年から20年くらいの間とされています。
バーボンウイスキー&ソーダをハイボールと呼ぶようになったといいます。

日本でも1870年代には蒸留酒のソーダ割りをハイボールと呼んでいたかもしれません。

次回は、1870年開業のグランドホテルの話です。