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2020/08/31

日本のバー誕生の地 横濱の話⑭ グランド・ホテル

 本日は日本のバーに影響を与える存在となったグランド・ホテルのお話です。

はじめのグランド・ホテルは横浜外国人居留地20番に建てられました。

20番地は704坪と広く、グランド・ホテルとなる建物は土地の所有者であるHenry E. Hoey(ヘンリー・ホウイ)氏が150坪ほど使い建てました。

ホウイ氏はホテル開業前となる1869年12月27日に、彼を恨んでいたセイキチと共犯者のテツゴロウにより殺害されました。

ホウイ氏が建てた150坪ほどの3階建ての建物は、1870年はじめにW.H.スミス氏、J.Davis氏、G.M.Dare氏の3人の共同経営に乗り出し、支配人にJoseph Lyons氏を迎えグランド・ホテルの名で開業しまが、その後直ぐに「ヨコハマ・ホテル」を経営していたGreen氏に経営権を移します。しかし、1871年3月22日に数人によるグランド・ホテル火災未遂の事件があった事と、秋に「兵庫ホテル」を開業することも確定していたGreen氏はグランド・ホテルの経営から手を引いたといいます。

1872年はグランド・ホテルは空き地でしたが、改装工事が進み、横浜最大規模のホテルとして1873年8月16日にグランド・ホテル新規開業となり、W.H.スミス氏が経営し、1870年オープン時に支配人をしていたJoseph Lyons氏を再度支配人に、料理長にべギュー氏を配置して大々的に新装オープン致しました。



1874年には当初横浜一と言われた「インターナショナル・ホテル」と並ぶトップホテルとなります。

1875年には支配人にChas Boel氏、料理長はポーラン・ミュラウール氏に代わり、1876年には支配人がJ.Reynaud氏、料理長にはガンドーベンル氏に引き継がれ、1877年には出資者は80人ほどになりましたが経営は負債増え、1878年6月にはオークションにかけられてBourne商会により当時22100ドルで落札され、7月1日にリニューアル・オープンとなりました。

商会は1年程の経営となり、その後はミュラウール氏と兄のジカーボ氏が経営を引き続きました。

1888年夏に建造した蒸気船で納涼パーティーや横浜港一周散策を企画し大成功。

1881年には、ケーキ、アイスクリームの宅配を始めたり高級ビリヤードを導入したりと施設を充実させ、パリのグランド・ホテルに匹敵すると言われていました。

1882年度からは経営者がミュラウール氏とM.Causan氏、Joseph Boyer氏の三者の共同経営となります。

1884年5月からミュラウール氏とJoseph Boyer氏の共同経営。

1886年には隣の居留地19・18のインターナショナル・ホテルとウィンザー・ハウスが火災となり、グランド・ホテルと統合合併した事でウィンザー・ハウスの経営者であったウルフ氏がグランド・ホテルの新たな経営者に加わり3人での経営がはじまります。

居留地18と19は新館増設となり1889年にグランド・ホテルは更に大きな変貌を遂げました。


1889年夏から株式組織となり、代表運営者はアメリカ海軍医のC.U.Gravatt氏、イギリス海軍主計大佐のW.B.Walter氏、E.Blanc氏ら4名となりました。

1890年6月30日、横浜在住のフランスの建築家P.Sarda氏によりグランド・ホテル新館が建てられオープンとなりましたが、内装工事が未完成でありました。この時にバーも設置となりました。




新館全体の完成となる1891年1月より支配人となるLouis Eppinger(ルイス・エピンガー)氏がサンフランシスコから招聘されたのは1890年、日本のバーの歴史に大きな影響を与える人となります。

●次回はルイス・エッピンガー氏のお話を予定しております。