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2026/06/10

ミスター・マティーニ今井清 氏の話し

本日は伝説のバーテンダー、ミスター・マティーニこと今井 清(いまい きよし)氏のお話し。

1923年4月28日、石川県羽咋市生まれ。



今井 氏の叔母が横浜鶴見に暮らしており、隣の家に東京會舘のチーフバーテンダーを務めていた本多春吉 氏が住んでいました。

1939年、富山出身の本多 氏の弟子が戦争で応召されたため、本多氏は次も北陸の人間を育てたいと考えます。そこで同郷の今井 氏の叔母に相談。声をかけられた今井 氏は石川から上京し、東京に到着した翌日、買ったたばかりの靴を履き、本多 氏に連れられ帝国ホテルが委託経営していた東京會舘に向かいます。人事課の面接を受けましたが、本多 氏の紹介ということで形式で済み、酒場係として入社が決定しました。以来、本多氏に師事し、バーテンダーとしての道を歩むことになります。

写真下は、状況当時の今井 氏。



まず言葉の訓練から始まり、返答に田舎弁が混ざると何度も聞き返され、正確な言葉になるまで繰り返されたそうです。

今井 氏は、その時のことを「入社当初から言葉のハンデに苦しめられた。これも東京會舘という日本を代表する社交場に働く者として不可欠のことであったが、私にとって毎日が針のむしろであった」とインタビューで語られている。

帝国ホテル、東宝株式会社に勤務、1942年に国民徴用により日本製鋼横浜製作所・横銃製造所に勤めることになり、 1944年10月には召集令状が届き、厳しい状況下で兵役を努め終戦を迎え、1945年12月に東京會舘にもどります。

東京會館は、GHQに接収され、名称をアメリカン・クラブに変更する。會舘の近くにはGHQ総司令部が設置された第一生命ビルがあり、そこに勤務するアメリカ軍将校達相手に新たなバーテンダー修行が始まったといいます。

当時のアメリカン・クラブには、1階にメイン・バーとラウンジ・バー、3階にメイン・ダイニング、4階にはボール・ルームがあり毎晩ディナーとダンスが開かれていました。

バーテンダーは当時のチーフ・バーテンダーである本多春吉 氏以外には、今井清 氏、12月から見習いとして入社となった山崎 達郎 氏のみで、他は急遽集められたスタッフのみであったそうです。

心細かったスタッフもその後、浜田昌吾 氏、浅倉進次郎 氏、秋田清六 氏、田村清吉 氏といったメンバーが集まり、日本のバーテンダー史に名を刻んだ人物達と一緒に働く。

ミスター・マティーニと呼ばれる様になったのは、いつからなのか?



今井 氏のマティーニ伝説は、東京會舘時代からのようです。

東京會舘のお客様であった保険会社社長が、ロンドンから、当時の東京會舘の社長宛に届いた手紙には「アメリカにも行き、ヨーロッパを巡るが、いまだ今井君に勝るドライマティーニに出会っていない。ということは今井君のマティーニは世界一ではなかろうか」と書かれていたという。

 1961年からは、パレスホテル東京に移り、ロイヤルバーの初代チーフバーテンダーとなる。



パレスに移られてからの今井 氏のマティーニのレシピは、ゴードン・ジン55ml、ドライ・ヴェルモット15ml、オレンジ・ビターズ1dashをステアしてカクテルグラスに注ぎ、レモンピール、オリーブを飾るというもの。

晩年は、ドライ・ジンとドライ・ヴェルモットの割合は8対1であったようです。


1963年の調理師法施行10周年記念カクテル・コンクールにて「ライジング・サン」で厚生大臣賞を受賞。

レシピは、テキーラ30ml、シャルトリューズ・ジョーヌ20ml、コーディアル・ライム10mlをシェークして、ソルト・リムしたカクテル・グラスに注ぎ、スロージンを1tspドロップし、レッドチェリーを沈める。

1971年には、東京で開催された第12回IBAインターナショナル・カクテル・コンペティションにて「Hermes / ヘルメス」で準優勝。

レシピはテキーラ30ml、クレームドウメ20ml、ライムジュース10ml、アニゼット 1tspをシェークしてカクテル・グラスに注ぐ。

一般社団法人 日本ホテルバーメンズ協会(HBA)の前身であるホテルバーメンズクラブ(HBC) 初代専務理事に就任。

1984年にバーテンダーを引退。

私は今井 清 様のカクテル作成のお姿は遠くから拝見したことがあります。ステアは會舘ステアの源家のようなスタイルで、バースプーンの持ち手は、螺旋中央の少し上で、小指は外に出しておりますが、摘みから上のスプーンの回転が小さめの弧の描き方と記憶しています。シェークは、今で言うインフィニティ・シェークに近い動きでリズミカルに左から右へ横に流すような独特なシェーキングだったのを覚えいます。

また私がホテル・グランドパレスに勤務していた時代に、今井清 様に2度カクテルを作成し提供したことがあります。

今井 様は、月に1度ホテル・グランドパレスの一階にあった理髪店で髪を切り、メインバー・ロイヤルバーでモクテルの様なものを楽しまれていました。

今井 様は、ミスター・マティーニのイメージがあり、酒に強い方であると思っておりましたが、実は酒に弱い方でした。98年春のある日、今井 様が髪を切られた後にロイヤル・バーにお越しくださいました。ご来店時にマネージャーやキャプテン、先輩が食事に行かれたタイミングで、現場にバーテンダーは私しかおらず、社員食堂に連絡するも誰も捕まらず、私の勝手な判断で、僭越ながら今井 様のオーダーを伺い作らせていただきました。注文は「フレッシュ・オレンジ・シェーク」でした。

このチャンスにアピールをしようと気合いを入れ過ぎたハードシェークで仕上げて提供したことを覚えております。お帰りになられた後に、マネージャーが「どうして勝手な判断をした!」と怒られたことを覚えております。

二度と今井 様へのカクテルを提供することは叶わないと思っていたのですが、二度目のチャンスが訪れました。

レストランに女性二名と今井 様の三名でご来店され、食後に急遽カクテルを楽しまれるとのことでした。そのカクテルは、スタッフが全員解らず、カクテルに詳しいアイツならと、マネージャーが「北條、ガリアーノ・ホット・ショットって解る?」と聞かれ作ることに!

私が用意したガリアーノ・ホット・ショットはマネージャーが運び提供となりました。

75歳になられても、流行ものに対してアンテナを常にはられて新しいものをご存知で、カクテルに対する愛情が深い方なのだと感動したことを覚えています。

その半年後くらいの1999年1月28日に今井 様は他界となりました。