2020/01/06

日本のバー誕生の地 横濱の話⑧ アラキチンダ


今年で日本(横浜)にバーが誕生して160年になります!

オークションで購入させて頂いた「横浜開港見聞誌」。

この本にお酒が飲まれている記録が描かれています。


1862年に横浜異人館でシャンパン、ワイン、蒸留酒の他、カクテルの様なものが楽しめた様子が書かれている。

写真下には、焼酎に木の実の絞り汁を混ぜ合わせた様子が書かれており、カクテルもしくは今でいうインフュージョン酒を思わせる文。

「酒は多く焼酎へその国よりて木の実をしぼり合わせて、その一名をつけたる品多く、もっとも美味なるもあり。阿蘭陀葡萄酒にアラキチンダなどの品あり。」


その文の中に気になる酒名が書かれている。
【アラキチンダ】です。

アラキは、1551年1月にザビエルが京都を訪れた際に土産物として持ち込んだとされて、安土桃山時代にも知られた酒でした。
江戸時代では南蛮渡来(この頃は東南アジア諸国に限らずポルトガル、スペインなどヨーロッパからのものも指す)の蒸留酒を指しアラビア語の汗を意味する "arrak" からアラキと呼ばれ漢字で阿剌吉、荒木と書かれた。
汗の様な蒸気が冷却されて出来上がった蒸留酒を総称して阿剌吉酒とも呼び、阿剌吉酒は焼酎や泡盛とは違い薬用も兼ねた蒸留酒である事を書いた文章がいくつかある事やアラックは正規輸入されていない事から当時では主にGINを指したものだったと思われます。


チンダは、チンタを指す言葉。
ポルトガルの赤ワイン「Vioho Tinto(ヴィニョ・ティント)」の "ティント" が チンタと伝わったとも言われ、ワイナリーをポルトガル語で "キンタ" とも言うので、それがチンタになったのではとも言われ、いずれにしてもポルトガルの赤ワイン全般を日本で「珍陀酒(ちんたしゅ)」と言いました。
珍陀酒は織田信長も飲んだとされて「血のようだ」と表現しています。
しかし信長はヴィニョ・ティントを飲んだのではなくポートワインではないかとも言われています。
ポルトガル北部ポルト港から出荷され長い航海に耐えたのは酒精強化のポートワイン?
信長は甘党でも知られ酸味の強いワインを好まず、甘味のあるポートワイン?の赤を飲みそれを珍陀酒と呼んでいたと推測しましたが、ポートワインが信長の時代に存在しないとなるとポートワインでもないかも知れません。
かといってVioho Tintoでもない気がします。
信長の時代の珍陀酒がはっきりしないところですが、ポルトガルの赤ワインやルビー・ポートも江戸時代後期では珍陀酒と総称されていたようです。



写真上の文章では "阿蘭陀葡萄酒にアラキチンダ" と書かれており、まずここで2種の赤ワインなら葡萄酒にアラキと、まとめて書かなかっただろうか?
またアラキチンダの部分はアラキ、チンタ若くは阿剌吉、珍陀と分けずにアラキチンダと一つにしている事から阿剌吉酒(ジン)と珍陀酒(ポートワイン)を混ぜたものと考えるなら...

浮かび上がるカクテルは【プリンストン】です。
この時代の横浜にはジンもポートワインも正規輸入されています。
1862年に横浜ではプリンストンが作られ飲まれていてアラキチンダと呼んだのかもしれません。

次回⑨からは1870年代の横浜のカクテルストーリーを探りたいと思います。