2026/10/06

第3代目ミスター・バーテンダー 浅倉 進次郎 氏のお話し。

 浅倉進次郎(あさくら しんじろう)氏。

1923(大正12年)年の末から1944年まで帝国ホテルでチーフバーテンダーを勤める。 

1930年にはグリルにも所属する。

片手振りのシェーキングで有名なであったと言われます。




1946年には東京會舘に移る。北海道にオーセンティックバーが広まる基礎を築いたバーテンダー山崎 達郎 氏が東京會舘での修行時代に浅倉 氏を師事する。

1950年代半ばには、銀座西のアンダアバーに所属。

1955年6月1日に、第3代目となる「ミスター・バーテンダー」受賞。



1955年にバーテンダー協会が分裂する。

1955年11月、全日本バーテンダー協会(ANBA)創立。会長には室井良介 氏、顧問に本多春吉 氏、関東本部長に浅倉 氏が就任した。 

1958年5月、東西文明社より浅倉 氏の著書「新カクテル200種」を出版。

浅倉 氏の著書の中で気になったレシピ。

ダイキリのシロップはグレナデン・スタイル。



ミリオンダラー は、材料の配合が違い、飲みやすくアレンジ?


ヨコハマ・カクテルは、イタリア・ヴェルモット入り。


山形で流行している「プリンセス・ハイボール」は、おそらくこのカクテルのソーダ割りかと思われる。


また浅倉 氏のステアは、本多春吉 氏と似ていたようで、とある古い本に以下のような様子が書かれています。

「スプーンを回すのだが、スプーンで底をこするのではない。スプーンの背をグラスの内壁につけて回しながら、手前にきた時は下げ、向側に行った時は上げる。そう、右回りでだね。七、八回が適当だろうね。これは本多さん、浅倉さりもその程度との事だったから、まあ標準と云えるだろう。」

お2人とも東京會舘でお勤めされていた方ですが、この文章から読み解くと、60年代から言われる「會舘ステア」では無さそうです。


2026/10/05

富士の輝のミッキーファン・フィズ

 山梨県産の「黒いシャインマスカット富士の輝」が入荷しております!

志村葡萄研究所で開発された希少品種で、「シャインマスカット」と「ウインク」を交配して生まれた高級ぶどうです。

糖度は18〜25度。種無しで皮ごと食べれます。

おすすめのカクテルは「富士の輝のミッキーファン・フィズ」です。




オオトリ・ジン、黒いシャインマスカット富士の輝、グレープフルーツ・ジュース、レモン・ジュース、ソーダ・ウォーターで作ります。

是非お試しくださいませ!

2026/09/27

ヤマタノオロチ退治に使われた酒「八塩折之酒」とは?

 八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治に酒が登場します。

神々が住む高天原(たかまがはら)を追放されたスサノオノミコトは、斐伊川(ひいがわ)の流域に降り立ちました。

そこで、嘆き悲しんでいるアシナヅチとテナヅチという老夫婦に出会います。

老夫婦から、娘のイナタヒメ(クシナダヒメ)を怪物ヤマタノオロチに生贄として差し出さなければならないと聞いたスサノオは、オロチの退治を約束しました。

八岐大蛇は酒が好物であったため、強い酒【八塩折之酒(やしおりのさけ)】でオロチを酔わせ、長い剣で切り伏せて見事に退治したという有名な神話です。

このお話しは、奈良時代の初めとなる712年の『古事記』(712年)、720年の『日本書紀』という2つの本に書かれています。





●出雲神話「スサノオの八岐大蛇退治」のお話し


神々の時代、高天原(たかまがはら)で悪行を重ねたスサノオは、その罪によって追放されてしまいました。

スサノオが出雲の簸之川(ひのかわ)のほとりに降り立つと、川上からすすり泣く声が聞こえてきます。声のする方へ向かうと、老夫婦が一人の少女を囲み、その体を撫でさすりながら涙を流していました。

スサノオが「お前たちは誰だ? なぜ泣いているのか」と尋ねると、老人はこう答えました。

「私は国津神(くにつかみ)のアシナヅチ、妻はテナヅチ、そしてこの娘はクシイナダヒメと申します。私たちには八人の娘がおりましたが、毎年ヤマタノオロチに呑まれてしまいました。今度はこのクシイナダヒメが呑まれる番ですが、逃れるすべがありません。それを悲しんで泣いているのです」



スサノオが「それならば、クシイナダヒメを私に差し出しなさい」と言うと、アシナヅチは「仰せのままにいたします」と答えました。

スサノオは、すぐにクシイナダヒメの姿を「湯津爪櫛(ゆつつまぐし)」に変えて自分の髪に挿しました。そして、老夫婦に何度も醸造した強い酒【八塩折之酒】を用意させ、八つの桟敷(さじき)を造って、それぞれに酒を満たした樽を置かせました。

そこへ、ついにヤマタノオロチが姿を現します。

その姿は、頭と尾がそれぞれ八本に分かれ、目は真っ赤に熟れたホオズキのようでした。背中には松や檜が生い茂り、胴体は八つの丘と八つの谷にまたがるほど巨大でした。

ヤマタノオロチは、桟敷に置かれた樽の酒をすべて飲み干すと、すっかり酔っ払ってその場に眠り込んでしまいました。スサノオはその隙を突き、腰に帯びた十拳剣(とつかのつるぎ)を抜いて、大蛇をズタズタに斬り刻みました。

そのとき、ある一本の尾を斬ったところで、剣の刃が少し欠けてしまいました。不思議に思ってその尾を切り裂いてみると、中から一振りの見事な剣が現れました。これこそが「倶娑那伎能都留伎(くさなぎのつるぎ)」、またの名を「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」といい、後に「草薙の剣(くさなぎのつるぎ)」と呼ばれる。これは駿河国で草を焼き払って難を逃れたエピソードから草薙の剣と呼ばれました。

スサノオは「これは神聖な剣だ。自分が所有するべきではない」と考え、その剣を高天原の天照大御神(アマテラスオオミカミ)に献上しました。

その後、スサノオはクシイナダヒメと暮らす新しい土地を探し、出雲の清地(すが)に辿り着きました。そこでスサノオが「私の心は清々しい」と言ったことから、この地は「清(すが)」と呼ばれるようになりました。

スサノオは清の地に宮殿を建て、クシイナダヒメとの間にオオナムチを授かりました。また、アシナヅチとテナヅチをこの宮殿の首長に任命し、「イナダミヤヌシノカミ」という名を与えました。

こうして出雲に平穏をもたらしたスサノオは、やがて根の国へと旅立っていきました。


●710年代にはあった強い酒「八塩折之酒」とは?

八塩折之酒(やしおりのさけ)とは、「何度も繰り返して造ったお酒」という意味です。

「八」は「沢山」

「塩」は「搾り汁(醸造酒)」

「折」は「何度も繰り返す」

いちど熟成したもろみを絞って粕をすて、酒を造り、その酒を水の代わりに使ってまた酒仕込むという贅沢な工程を何度も繰り返して造るというもの。

この酒の原料は米ではないようです。

日本書紀に「衆菓(もろもろのこのみ)を以て、酒八甕(かめ)を醸すべし」とあります。

その原料は木の実や果実だったのではと推測されたりもします。

酒で酒を仕込み、アルコール発酵が途中で止まり、糖化が進み、濃い味て甘い酒だったのではないかと言われています。

機会があれば一度飲んでみたい酒です。


● 草薙の剣は現在「熱田神宮」にて保管される

草薙の剣は、神話から歴史時代を経て、いくつかの主要なエピソードとともに移動し、現在の熱田神宮(愛知県名古屋市)に安置されています。




現在の熱田神宮で安置されるまでの経緯は4つあります。

1. スサノオから天照大御神へ、ヤマタノオロチを退治した際、その尾から剣が見つかり、スサノオはこれを高天原のアマテラスオオミカミに献上しました。

2. アマテラスの孫であるニニギノミコトが地上に降臨する際に、三種の神器の一つとして草薙の剣が授けられました。その後、崇神天皇の時代に宮中から出され、伊勢神宮にお祀りされることになります。

3. ヤマトタケルが譲り受け、熱田の地へ東国の征伐に向かうヤマトタケルノミコトは、伊勢神宮の叔母(ヤマトヒメ)から草薙の剣を譲り受けます。

4. ヤマトタケルは現在の名古屋周辺(尾張国)のミヤズヒメと結婚しますが、剣を彼女のもとに残したまま亡くなってしまいます。残されたミヤズヒメが、剣を神体として祀るために建てたのが熱田神宮の始まりで、草薙の剣は現在も熱田神宮に保管されています。

2026/09/26

東京會舘が最後の東京ミレナリオを記念して創作したカクテル「Viva New Century」

今週おすすめしているカクテル「Viva New Century / ビバ・ニュー・センチュリー」紹介。

 2005年、丸の内で開催された最後の東京ミレナリオを記念し、当時の東京會舘本舘のチーフバーテンダーである後藤茂之 氏が考案したカクテル。




後藤茂之 氏は、1967年に東京會舘入社。

會舘ステアを体系化し広めた高頭徳一 親方のあとを、1994年に継承し、本舘チーフバーテンダー(親方)に就任された方です。

貴重な後藤茂之 親方のオリジナル・カクテルが「Viva New Century」です。

レシピ

Vodka  45ml

Parfait Amour 10ml

Chartreuse Jaune 5ml

上記材料をシェークしたショート・カクテル。

紫色したアラスカの様なカクテルです。

是非お試しくださいませ!

2026/09/23

日本のバー誕生の地㉓ 横濱の話 電気ブランの考案者で知られる「神谷傳兵衛 」氏のお話し

本日は明治時代のカクテル「電氣ブランデー(デンキブラン)」の開発者である神谷 傳兵衛 氏のお話しです。
先日、牛久シャトーの「神谷傳兵衛記念館」に行き情報収集をして参りました。

●1873年に横浜外国人居留地の洋酒醸造所で働き始める

神谷 傳兵衛 (かみや でんべい)。

1856年、愛知県の西三河に位置する西尾市の神谷兵助 氏の六男として生まれる。

神谷傳兵衛 氏は1873(明治6)年、17歳の時に横浜に出て、フランス人の経営する横浜外国人居留地の洋酒醸造所であるフレッレ商会に雇われ、3年熱心に働き、洋酒製造法を習得します。

20歳のある時、醸造所での過労が原因で倒れます。そこから病をこじらせた神谷 氏は、医者に見放される程衰弱してしまいます。

そのことを知った雇い主のフランス人は神谷 氏を見舞い、持参した葡萄酒を飲ませます。

毎日飲み続けていると次第に元気になり、病から回復することができたそうです。

「滋養があり、効能のある酒をもっと普及させたい、しかし輸入品は高価でとても庶民には手が届かない。いつかきっと自分の手で誰もが口にできるような酒を作ってみたい!」と、思いが膨らんでいったという。

1875年、傳兵衛は東京麻布の天野という造り酒屋に奉公。

1880年4月、24才の時に独立を決意。

写真下が神谷傳兵衛 氏。



観音様への信仰が根強く、縁日の人手が多い浅草に目をつけていましたが、花川戸町四番地(現在の神谷バーの所在地)にて「みかはや銘酒店」をオープン。店名は故郷の地名にちなんだもの。そこでにごり酒の一杯売りを始めました。これが「神谷バー」の前身となりました。

神谷 氏は、日本で洋酒需要が高くなってきたタイミングで、ワインを一般に普及させようと考えます。


●1881年「蜂印香竄葡萄酒 」発売

当時ワインは、まだ日本人に馴染みないものでしたが、樽詰めワインを輸入し、ワインに漢方薬を浸漬し蜂蜜を加えた甘味果実酒を造り、1881(明治14)年に【蜂印葡萄酒 / はちじるしぶどうしゅ】として販売開始します。

1886年に「香竄(こうざん)」の商標登録を受け【蜂印香竄葡萄酒 / はちじるしこうざんぶどうしゅ】となる。





「蜂印」という名称は、かつて神谷 氏が「Beehive / 蜂の巣箱」というフランス産ブランデーを扱ったことにちなみます。

「香竄(こうざん)」は、父である兵助 氏の俳句の雅号であり、親のご恩を忘れないためにと、この言葉のなかに「隠しても隠し切れない、豊かなかぐわしい香り」という意味があることにちなみます。

浸漬しているボタニカルは、ラベルに描かれており、ローヤルゼリー、ドクダミ、カリン、ビワ、枇杷、銀杏、桂皮、丁子、カルダモン、コリアンダー、甘草、山椒、橙、ナツメグ、フェンネル、スターアニス、熊笹、高麗人参、蜂蜜、エゾウコギ、レイシ、クコの実、サンザシ、杜松の25種類。

この「蜂印香竄葡萄酒」は、親友で事業協力者でもある近藤 利兵衛 氏のマーケティング活動により、9年後には全国で人気商品となりました。


●1882年 みかはや銘酒店時代にボトルカクテル「速成ブランデー」発売

1882年(明治15年)に神谷 氏(27歳)は、輸入した酒類を原料にブレンドしたボトルカクテル「速成ブランデー」を造る。これが電氣ブランデーの原形となります。

速成ブランデーは、明治15年から流行していたコレラの予防に効果があると噂になり、人気となりました。

ベースに使われる輸入酒精の分析試験を念入りに行い、結果は、有害物を含まない廉価な薬用的飲みものとしての自言を強めることができた。この酒精そのものも販売しますが、需要が極めて少なかったことから、1883年には泡盛の販売を始める。

1898年、葡萄の苗を茨城県岡田村に6000本移植する。

同年、東京日本橋区銀河岸に神谷汽船合資会社を設置し運輸業をはじめる。


●1893年「電氣ブランデー」発売

電気の供給会社「東京電灯会社」が設立された明治16年から神谷 氏が速成ブランデーのレシピを少しづつ改良し、1893年に神谷酒造第二工場を東京本所区中ノ郷瓦町に設置し「電氣ブランデー(後のデンキブラン)」を発売させる。

レシピは、グレープ・スピリッツ(薬用として売られていた輸入ブランデー)、ワイン、ジン、ヴェルモット、キュラソーをブレンドしたボトル・カクテル。当時アルコールは45度であった。

ネーミングの由来は、文明開化の風潮の中で「氣」という言葉にはハイカラなイメージがあり、当時は目新しいものは「電氣〇〇」と呼ぶことが流行していました。

写真下左が発売当初の1893年の「電氣ブランデー」のボトル、右は「蜂印香竄葡萄酒」。



電氣ブランデーは「飲み口の良い、強いお酒なので身体の芯まで心地良くピリリとしびれるように酔いが回る」との評判となる。

1899年、日本酒精製造株式会社を設立する。同年に北海道旭川に酒造工場を設ける。

1901年に醸造場建築開始。「神谷葡萄園」にフランスボルドー地区の最新様式を取り入れた醸造場建築を始める。この年に、神谷葡萄園で栽培した葡萄で造る赤、白のワイン【牛久葡萄酒】第一号が誕生します。

1903年9月、牛久醸造場・牛久シャトー竣工。

11月1日に神谷酒造合資会社設立。




1911年、民間会社として国内で初めて99度以上の無水アルコールの製造に成功。

1912年4月10日(神谷 氏56歳)に、みかはや銘酒店の店舗内部を西洋風に大改造し、西洋風バー「神谷バー」へと改称。電氣ブランデーは、神谷バーの名物となる。




1919年、収集していた美術骨董品のコレクションを東京帝室博物館(現在の東京国立博物館)に什宝668点を献納。 

1922年4月24日に神谷 傳兵衛 氏は66歳逝去。


1957年に「デンキブラン」に名称変更

1957(昭和32)年に電氣ブランデーは、親しみを込めて「デンキブラン」へ改名。

同時にアルコール度数も45%から30%に変更される。



また神谷傳兵衛記念館の展示品の一つにボトル・カクテルと思われ「Mon bran / モンブラン」というものがあり、詳しくは解らなかったのですが、ネーミングからして神谷傳兵衛 氏が他界してからの商品でデンキブラン発売当初かその前にあったものではと推測しています。製造は、山梨県のワインメーカー太平醸造株式会社(旧中央発酵化学株式会社/日東工業株式会社)で造られています。太平醸造株式会社時代は1951年から1957年ですので、その間の商品であることは間違いないと思われます。



また電氣ブランデーを製造していた合同酒精株式会社では「bran d'or / ブラン・ドール」というブランデー・ベースのリキュールも製造していた様で、これもデンキブラン系だったのだろうか?気になる商品でした。




1983年に「電気ブラン・オールド」発売

1983年、電氣ブランデー発売当時のラベルデザインを踏襲し、アルコール分は45%ではなく40%にした復刻版の「電気ブラン・オールド」が発売。明治時代より受け継がれる秘伝のブレンドで造られているそうです。

2026/09/22

Soul Cocktail's 25th Anniversary Reception PARTY

 2026年9月20日は、「Soul Cocktail's 25th Anniversary Reception PARTY」でした。

歴代バーテンダーの皆様によるカクテル提供の仲間に加えていただき、私も来場された皆様にカクテルをお作りさせていただきました。

今回、Soul Cocktail's青葉台店のオーナーである横山さんにお声がけいただいたことで、参加させていただけることとなりました。








お祝いのお手伝いに伺ったという気持ちはもちろんですが、それ以上に、他界した友人・柳澤直樹氏の、数年越しの弔いのような時間でもありました。今も心の中で生き続ける彼が、私をこの会場に導いてくれたのだと感じています。

「私はこの業界でもう少し頑張りますね」と、彼が大切にしてくれていた私のカクテル『ハート&ソウル(心と魂)』を提供しながら、心の中で語りかけておりました。




改めまして、Soul Cocktail's創立25周年を心よりお祝いすると共に、益々の発展をお祈り申し上げます。

そして当日、時間を共有してくださった全ての皆様、本当にありがとうございました。


2026/09/21

大倉山「大乗寺」様 創建450周年記念イベント

 2026年9月19日から21日までの3日間、大倉山「大乗寺」様にて、創建450周年・徳川家朱印状公開という記念イベントが開催されました。

今回、日頃より大変お世話になっている副住職様のご依頼で、ご来山いただいた皆様へドリンクを提供する大役をご依頼いただきました。













このような貴重な節目にお声がけいただき、お手伝いできましたことは、私共にとりましても大きな喜びであります。

大乗寺様のますますのご発展と、皆様のご健勝を心よりお祈り申し上げます。

2026/09/17

昨夜は銀座「dunhill BAR」へお越しいただいた皆様本当にありがとうございました!

 昨夜は「dunhill BAR」へ多くの皆様にお越しいただき、誠にありがとうございました!

皆様のお陰で私自身も大変に充実した特別な一夜を過ごさせていただきました。















いつも応援してくださる皆様、そして素敵な機会をいただいたdunhill BARの皆様に、心から感謝申し上げます。

これからも皆様に特別なひとときをお届けできるよう、日々精進してまいります。

引き続きどうぞよろしくお願いいたします。


北條 智之