2022/09/10

日本のバーのはじまりとカクテル歴 1860年 - 1874年

日本のバー誕生の地 横浜


 ●【日本初のバーの話】

1859年6月2日(新暦では7月1日)に横浜港が開港され日本最大級の貿易港となり、日本の対外貿易の8割は横浜となりました。2月24日、横浜の外国人居留地70番地(現在は横浜市中区山下町70番地 "かをり"の場所)にオランダ人でNASSAU号元船長のフフナーゲル氏が日本初のホテルといわれる「ヨコハマ・ホテル」を開業。

ホテルの中には、日本初となるバーが出来ます。

小さなバーでビリヤード台もあったといいます。



開業と閉鎖は7回繰り返された。


●【日本初のバーテンダー】

ヨコハマ・ホテルのフフナーゲル氏が採用した初代バーテンダーは、当時27歳の黒人。

イギリス国籍を持つジャマイカ人 James B. Macaulay氏が日本初のバーテンダーとなりました。オープンから8ヶ月でバーテンダーを辞めています。

退職から1年間。Macaulay氏はホテル開業の準備をしていました。その間に1862年に完成した仮設競馬場「横濱新田競馬場(場所は現在の横浜中華街)」のバーでも働き、10月1日・2日の秋の競馬場会ではMacaulay氏がカクテルをサーブしたことが解っています。

1862年10月25日に横浜外人居留地86番に「ロイヤル・ブリティッシュ・ホテル」を開業。浴室ありの寝室、ビリヤード室、日本初のコーヒーハウスとボーリング場も出来ましたが、1864年8月30日に廃業となります。




1864年末から馬車の貸し出しと仲買業を行い富を得ます。

1873年7月24日、Macaulay氏は横浜を出港し日本を去りました。


●【1861年から日本でハイボールが飲まれていた】

1860年に横浜の沼地を埋め立て約15000坪の遊廓を建てました。

この場所は港崎(みよざき)と呼ばれていた事から「港崎遊廓」と名付けられ、場所は現在の横浜スタジアムである。

港崎遊廓最大の遊女屋は「岩亀楼(がんきろう)」と呼ばれた。

ハイボールの記録は、1861年に岩亀楼にて開催された英国守備隊主催の英国艦隊横浜入港歓迎会にて登場しました。



守備隊幹部達は岩亀楼の大広間に集まり、シガーを楽しみながらブランデーソーダ(B & Sとも呼んだ)を飲んでいたといいます。

当時イギリスではブランデーのソーダ割りが人気でした。

ビクトリア朝時代のイギリスでは、ブランデーは心を癒し、ソーダは胃腸の調子を整えるとされておりブランデー・ソーダは、シャンパン替わりとしても飲まれていました。

1864年3月28日には、中国から横浜へ進出して来たFarr Brothers商会のソーダとトニックウォーター製造を切っ掛けに、横浜では蒸溜酒の炭酸飲料割りが広く飲まれて来ました。




この頃ウィスキーも輸入されておりましたが、居留地の外国人にはウィスキーよりブランデーが好まれ、ソーダ割りにはブランデーが選ばれました。

この頃の酒類輸入の広告を見るとウィスキーよりブランデーが上にリストアップされており、ブランデーの人気ぶりがうかがえます。

東京でハイボールが飲まれ始めるのは1872年。この年に日本初となる蒸気機関車の駅「横浜駅(現在の桜木町駅)」が誕生し、東京とラインがつながり、洋酒が東京へと一般的に流通される様になった事が理由です。


●【1862年から輸入された酒類を扱うTavern登場】

1862年から欧米水夫のための街酒場が横浜に設けられ、1863年からはかなり繁盛し、1864年には4軒、1868年までにTavernが10数軒。

アメリカのユダヤ商人Raphael Schoyer氏の土地又貸しによりTavernが誕生していった。

Schoyer氏は、幕府に自分の家を建てるまで一時的に日本家屋を使いたいと願い、手に入れた土地を小さく区切り、外国人に又貸ししてTavernを開店して行きました。

バーの棚の一番下が安酒で上にいくにつれ価格設定が高いものが並べられていた。



当時、Tavernを利用した外国人水夫達は騒ぎや横浜市民に暴行を加えるなど事件をおこしていた。


●【1862年に横浜で飲まれていたAlakichinda Cocktail】

1862年に横浜異人館でカクテルが楽しめた様子が「横浜開港見聞誌」に書かれている。

その文の中に【Alakichinda】というカクテル名が登場する。



Araki(Arrak)は、1551年1月にFrancisco Xavier氏が京都を訪れた際に土産物として持ち込んだとされてるスピリッツでした。

日本の江戸時代後期では海外渡来(この頃は東南アジア諸国、ポルトガル、スペインなどヨーロッパからのものも指す)の蒸留酒をArrakと総称され "Araki" とも呼んだ。

当日の文献に「Arakiは焼酎や泡盛とは違い薬用も兼ねた蒸溜酒である」と書いている事やArrakは正規輸入されていない事からArakiはGINを指したものであった。


Chindaチンダは、Chintaを指す言葉。

ポルトガルの赤ワイン「Vioho Tinto」の "Tinto" とワイナリーをポルトガル語で "Quinta" とも言うので、それがChintaになったのではとも言われる。ポルトガルの赤ワインやルビー・ポートも1860年代の日本ではChinta-shuと総称され、Alakichinda Cocktailには、ポートワインが使われたと推測されます。


●【横浜で本格的なカクテルバーをはじめたPurvis氏】

日本のカクテル歴のターニングポイントとなった年は1874年。横浜でカクテルバーを本格的に始めたイギリス人の退役海軍大佐G.T.M. Purvis氏がいました。

1868年に横浜外国人居留地に開業したインターナショナル・ホテルは、1874年7月1日に経営者からPurvis氏に譲り渡されたました。

Purvis氏が経営して約1ヶ月後には、2つ隣のグランド・ホテルとの激しい反目もあり、差をつける為にBARを充実させる。

Purvis氏のカクテル・メイキングは、日本のカクテル史の始まりとしてCharles Wirgman氏の横浜外国人居留地向けの風刺画英字新聞「The Japan Punch」に取り上げられていました。


しかしカクテル・メイキングはPurvis氏にとって難しかったようで、Jerry Thomas氏のシグネチャーである"Blue Blazer"の練習としてThrowingに挑戦し、上手くいかず、汗をかくPurvis氏の姿が描かれています。




そんなことからバーテンダーはアメリカから招くことになりました。


●【1874年 Vallejoからバーテンダーが招聘される】

1874年9月3日、横浜にカクテルの本場アメリカンからバーテンダーが来日。

1874年9月4日の横浜の英字新聞にインターナショナルホテルの広告にそのことが掲載された。




横浜で本格的にカクテルがサーブされ始めたのは1874年9月5日。

詳しくはCharles Wirgman氏のThe Japan Punchにも記事として書かれております。

アメリカのバーテンダーは、カリフォルニア州ソラノ郡サン・パブロ湾北部都市Vallejoから2人やって来ました。

1874年9月号のザ・ジャパン・パンチには、ヴァレーホから来たジョー(Vallejo Joe)とジム(Vallejo Jim)の2人の名前が登場する。




1874年9月5日からPurvis氏が経営するインターナショナル・ホテルのバーでカクテルがサーブされました。

ジョーがサーブしたドリンクは、風刺画にカクテル名が書かれており「Presidentess Charlottes」、「Mint Julep」、「Cobbler」の3つが書かれています。

9月6日からはジムがジャパン・ホテルのバーで働きはじめ、本格的に横浜でカクテルが楽しめる時代がこの頃からやって来ました。

描かれた絵はThrowingと、バーツールが宙に浮いたり足にストールしている様子が描かれていることからFlairも披露されたと思われ、日本最古のFlairの記録ではないかと思われます。