ラベル 横浜のバー関連歴史 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 横浜のバー関連歴史 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2026/10/06

第3代目ミスター・バーテンダー 浅倉 進次郎 氏のお話し。

 浅倉進次郎(あさくら しんじろう)氏。

1923(大正12年)年の末から1944年まで帝国ホテルでチーフバーテンダーを勤める。 

1930年にはグリルにも所属する。

片手振りのシェーキングで有名なであったと言われます。




1946年には東京會舘に移る。北海道にオーセンティックバーが広まる基礎を築いたバーテンダー山崎 達郎 氏が東京會舘での修行時代に浅倉 氏を師事する。

1950年代半ばには、銀座西のアンダアバーに所属。

1955年6月1日に、第3代目となる「ミスター・バーテンダー」受賞。



1955年にバーテンダー協会が分裂する。

1955年11月、全日本バーテンダー協会(ANBA)創立。会長には室井良介 氏、顧問に本多春吉 氏、関東本部長に浅倉 氏が就任した。 

1958年5月、東西文明社より浅倉 氏の著書「新カクテル200種」を出版。

浅倉 氏の著書の中で気になったレシピ。

ダイキリのシロップはグレナデン・スタイル。



ミリオンダラー は、材料の配合が違い、飲みやすくアレンジ?


ヨコハマ・カクテルは、イタリア・ヴェルモット入り。


山形で流行している「プリンセス・ハイボール」は、おそらくこのカクテルのソーダ割りかと思われる。


また浅倉 氏のステアは、本多春吉 氏と似ていたようで、とある古い本に以下のような様子が書かれています。

「スプーンを回すのだが、スプーンで底をこするのではない。スプーンの背をグラスの内壁につけて回しながら、手前にきた時は下げ、向側に行った時は上げる。そう、右回りでだね。七、八回が適当だろうね。これは本多さん、浅倉さりもその程度との事だったから、まあ標準と云えるだろう。」

お2人とも東京會舘でお勤めされていた方ですが、この文章から読み解くと、60年代から言われる「會舘ステア」では無さそうです。


2026/09/23

日本のバー誕生の地㉓ 横濱の話 電気ブランの考案者で知られる「神谷傳兵衛 」氏のお話し

本日は明治時代のカクテル「電氣ブランデー(デンキブラン)」の開発者である神谷 傳兵衛 氏のお話しです。
先日、牛久シャトーの「神谷傳兵衛記念館」に行き情報収集をして参りました。

●1873年に横浜外国人居留地の洋酒醸造所で働き始める

神谷 傳兵衛 (かみや でんべい)。

1856年、愛知県の西三河に位置する西尾市の神谷兵助 氏の六男として生まれる。

神谷傳兵衛 氏は1873(明治6)年、17歳の時に横浜に出て、フランス人の経営する横浜外国人居留地の洋酒醸造所であるフレッレ商会に雇われ、3年熱心に働き、洋酒製造法を習得します。

20歳のある時、醸造所での過労が原因で倒れます。そこから病をこじらせた神谷 氏は、医者に見放される程衰弱してしまいます。

そのことを知った雇い主のフランス人は神谷 氏を見舞い、持参した葡萄酒を飲ませます。

毎日飲み続けていると次第に元気になり、病から回復することができたそうです。

「滋養があり、効能のある酒をもっと普及させたい、しかし輸入品は高価でとても庶民には手が届かない。いつかきっと自分の手で誰もが口にできるような酒を作ってみたい!」と、思いが膨らんでいったという。

1875年、傳兵衛は東京麻布の天野という造り酒屋に奉公。

1880年4月、24才の時に独立を決意。

写真下が神谷傳兵衛 氏。



観音様への信仰が根強く、縁日の人手が多い浅草に目をつけていましたが、花川戸町四番地(現在の神谷バーの所在地)にて「みかはや銘酒店」をオープン。店名は故郷の地名にちなんだもの。そこでにごり酒の一杯売りを始めました。これが「神谷バー」の前身となりました。

神谷 氏は、日本で洋酒需要が高くなってきたタイミングで、ワインを一般に普及させようと考えます。


●1881年「蜂印香竄葡萄酒 」発売

当時ワインは、まだ日本人に馴染みないものでしたが、樽詰めワインを輸入し、ワインに漢方薬を浸漬し蜂蜜を加えた甘味果実酒を造り、1881(明治14)年に【蜂印葡萄酒 / はちじるしぶどうしゅ】として販売開始します。

1886年に「香竄(こうざん)」の商標登録を受け【蜂印香竄葡萄酒 / はちじるしこうざんぶどうしゅ】となる。





「蜂印」という名称は、かつて神谷 氏が「Beehive / 蜂の巣箱」というフランス産ブランデーを扱ったことにちなみます。

「香竄(こうざん)」は、父である兵助 氏の俳句の雅号であり、親のご恩を忘れないためにと、この言葉のなかに「隠しても隠し切れない、豊かなかぐわしい香り」という意味があることにちなみます。

浸漬しているボタニカルは、ラベルに描かれており、ローヤルゼリー、ドクダミ、カリン、ビワ、枇杷、銀杏、桂皮、丁子、カルダモン、コリアンダー、甘草、山椒、橙、ナツメグ、フェンネル、スターアニス、熊笹、高麗人参、蜂蜜、エゾウコギ、レイシ、クコの実、サンザシ、杜松の25種類。

この「蜂印香竄葡萄酒」は、親友で事業協力者でもある近藤 利兵衛 氏のマーケティング活動により、9年後には全国で人気商品となりました。


●1882年 みかはや銘酒店時代にボトルカクテル「速成ブランデー」発売

1882年(明治15年)に神谷 氏(27歳)は、輸入した酒類を原料にブレンドしたボトルカクテル「速成ブランデー」を造る。これが電氣ブランデーの原形となります。

速成ブランデーは、明治15年から流行していたコレラの予防に効果があると噂になり、人気となりました。

ベースに使われる輸入酒精の分析試験を念入りに行い、結果は、有害物を含まない廉価な薬用的飲みものとしての自言を強めることができた。この酒精そのものも販売しますが、需要が極めて少なかったことから、1883年には泡盛の販売を始める。

1898年、葡萄の苗を茨城県岡田村に6000本移植する。

同年、東京日本橋区銀河岸に神谷汽船合資会社を設置し運輸業をはじめる。


●1893年「電氣ブランデー」発売

電気の供給会社「東京電灯会社」が設立された明治16年から神谷 氏が速成ブランデーのレシピを少しづつ改良し、1893年に神谷酒造第二工場を東京本所区中ノ郷瓦町に設置し「電氣ブランデー(後のデンキブラン)」を発売させる。

レシピは、グレープ・スピリッツ(薬用として売られていた輸入ブランデー)、ワイン、ジン、ヴェルモット、キュラソーをブレンドしたボトル・カクテル。当時アルコールは45度であった。

ネーミングの由来は、文明開化の風潮の中で「氣」という言葉にはハイカラなイメージがあり、当時は目新しいものは「電氣〇〇」と呼ぶことが流行していました。

写真下左が発売当初の1893年の「電氣ブランデー」のボトル、右は「蜂印香竄葡萄酒」。



電氣ブランデーは「飲み口の良い、強いお酒なので身体の芯まで心地良くピリリとしびれるように酔いが回る」との評判となる。

1899年、日本酒精製造株式会社を設立する。同年に北海道旭川に酒造工場を設ける。

1901年に醸造場建築開始。「神谷葡萄園」にフランスボルドー地区の最新様式を取り入れた醸造場建築を始める。この年に、神谷葡萄園で栽培した葡萄で造る赤、白のワイン【牛久葡萄酒】第一号が誕生します。

1903年9月、牛久醸造場・牛久シャトー竣工。

11月1日に神谷酒造合資会社設立。




1911年、民間会社として国内で初めて99度以上の無水アルコールの製造に成功。

1912年4月10日(神谷 氏56歳)に、みかはや銘酒店の店舗内部を西洋風に大改造し、西洋風バー「神谷バー」へと改称。電氣ブランデーは、神谷バーの名物となる。




1919年、収集していた美術骨董品のコレクションを東京帝室博物館(現在の東京国立博物館)に什宝668点を献納。 

1922年4月24日に神谷 傳兵衛 氏は66歳逝去。


1957年に「デンキブラン」に名称変更

1957(昭和32)年に電氣ブランデーは、親しみを込めて「デンキブラン」へ改名。

同時にアルコール度数も45%から30%に変更される。



また神谷傳兵衛記念館の展示品の一つにボトル・カクテルと思われ「Mon bran / モンブラン」というものがあり、詳しくは解らなかったのですが、ネーミングからして神谷傳兵衛 氏が他界してからの商品でデンキブラン発売当初かその前にあったものではと推測しています。製造は、山梨県のワインメーカー太平醸造株式会社(旧中央発酵化学株式会社/日東工業株式会社)で造られています。太平醸造株式会社時代は1951年から1957年ですので、その間の商品であることは間違いないと思われます。



また電氣ブランデーを製造していた合同酒精株式会社では「bran d'or / ブラン・ドール」というブランデー・ベースのリキュールも製造していた様で、これもデンキブラン系だったのだろうか?気になる商品でした。




1983年に「電気ブラン・オールド」発売

1983年、電氣ブランデー発売当時のラベルデザインを踏襲し、アルコール分は45%ではなく40%にした復刻版の「電気ブラン・オールド」が発売。明治時代より受け継がれる秘伝のブレンドで造られているそうです。

2026/07/20

日本のバー誕生の地 横濱の話㉒ 日本のバー文化の黎明期を支えた名バーテンダー「高橋顧次郎」 氏の話し

本日は、日本のバー文化の黎明期を支えた、戦前を代表する伝説的な名バーテンダー高橋顧次郎 氏のお話し。

高橋顧次郎(たかはし こじろう)氏。

日本バーテンダー 協会(JBA)の二代目会長で、横浜グランドホテルで唯一ルイス・エッピンガー氏と働いていたことがある日本人バーテンダーです。

横浜グランドホテルで修行し、バーテンダーとして頭角をあらわす。

横浜グランドホテルの支配人のルイス・エッピンガー氏と一緒に働いていたと言う高橋 氏。

ルイス氏は、1905年に横浜グランドホテルの支配人から退き、その後はマネージング・ディレクターとして務めますが、1907年6月14日、ルイス氏は77歳で他界します。

高橋 氏がいつから横浜グランドホテルに入社したかは、正確に解っていないのですが、1905年より前ではないかと思われます。ここではセカンド・バーテンダーを務めていました。



1912年(大正元年)には、名バーテンダーとなる浜田晶吾 氏が横浜グランドホテルに入社するので、高橋 氏は浜田 氏の大先輩になります。

横浜で有名なカクテル「ミリオンダラー」は、かつてシャンパンを使用したレシピであったようですが、1915年頃に高橋 氏と浜田 氏で、一般的に広めるものにしようとシャンパンを除外した処方にしたと言われています。 

高橋 氏は、1923年9月1日の関東大震災まで、横浜グランドホテルにいたと思われます。

戦前には銀座のレッドテープに移ります。

1929年(昭和4年)5月1日、東京・神田パリスにて日本バーテンダー 協会(JBA)の結成式が行われ、高橋 氏は発起人の1人となります。

JBA発起人15人は、荻野 直寿 氏、高橋 願次郎 氏、大阪 登章 氏、玉田 芳太郎 氏、田村 八十八 氏、浜田 晶吾 氏、浅倉 進次郎 氏、鈴木 豊松 氏、 室井 光江 氏、本多 春吉 氏    斉藤 武雄 氏    高橋 徳兵衛 氏、田村 清吉 氏、薄井 常雄 氏、伊藤 裕章 氏。

JBAの委員長(初代会長)には荻野 直寿 氏、副委員長に高橋 氏が選ばれ、JBA事務局が銀座に設置されました。

この頃は、銀座の「レッドテープ」でバーテンダーをしておりました。

後に二代目会長には高橋  氏が選ばれます。

2026/06/21

東京會舘初代チーフバーテンダー 玉田芳太郎 氏のお話し

本日は日本のホテルバーおよび洋酒文化を黎明期から支えた伝説の名バーテンダーの玉田芳本太郎 氏の紹介です。玉田芳太郎(たまだ よしたろう)氏。

1910年代には帝国ホテルでバーテンダーを務める。

 1919年12月28日、帝国ホテルは1回目の火災がおきます。初代帝国ホテル新館客室の電気回路がショートして、火災が発生し焼失。

5ヶ月程で別館が再建され、1920年に別館バーのチーフに玉田芳太郎 氏が就任。

1922年11月に竣工した東京會舘に移り、東京會舘の初代チーフバーテンダーとなり、アシスタント・チーフ・バーテンダー は、浜田晶吾 氏となった。

帝国ホテルでの玉田 氏のポジションは、大阪登章 氏が引き続きます。

1923年9月1日、関東大震災。

東京會舘本館は、消失や崩壊は免れましたが休館を余儀なくされました。

その後、玉田 氏は精養軒に入社。

1925年(大正14年)7月20日、日本バーテンダー協会(JBA)が結せされる4年ほど前に、全日本バーテンダー ・クラブが結成されます。

発足記念の式典は、クラブの本拠地となる東京・神田の花房にて30人程が集まり行われました。

そのバーテンダー ・クラブの顧問的な役割で長老バーテンダーとして、玉田 氏と東洋軒の田村八十八 氏が名前を連ねます。




カフェー・ライオンの浜田晶吾 氏、郵船バーテンダー の田中明治郎 氏、中央亭の臼井 氏、タイガーの久保金藏 氏、花房の山田秀吉 氏、三州屋の藤生和邦 氏らが出席。このバーテンダー・クラブの機関紙発刊の計画が立ち上がりましたが、山田秀吉 氏の使い込みにより話しが流れてしまう。

1929年(昭和4年)5月1日、東京・神田パリスにて日本バーテンダー 協会(JBA)の結成式が行われ、玉田 氏は発起人の1人となります。

結成式には、発起人の荻野 直寿 氏、高橋 願次郎 氏、大阪 登章 氏、玉田 芳太郎 氏、田村 八十八 氏、浜田 晶吾 氏、浅倉 進次郎 氏、鈴木 豊松 氏、 室井 光江 氏、本多 春吉 氏    斉藤 武雄 氏    高橋 徳兵衛 氏、田村 清吉 氏、薄井 常雄 氏、伊藤 裕章 氏の15名と集まった40名が式に参加致しました。

戦前は、丸の内ステーションホテルに移る。

2026/06/20

日本最高齢のバーテンダーで生涯現役を貫かれた「山崎 達郎」氏のお話し。

本日は、北海道札幌市すすきのに「BARやまざき」を開業し、同市にオーセンティックバーが広まる基礎を築いたバーテンダー山崎 達郎(やまざき たつろう)氏のお話し。

「日本最高齢のバーテンダー」で「北海道バーテンダーの草分け」とも称され伝説の方です。



1920年6月28日。東京府東京市小石川区(現・東京都文京区)に生まれる。

幼少期は絵を描くことを好まれ、画家を志望していたと言われます。ご両親を亡くされたことを機に1937年頃から染物業をされます。

第二次世界大戦が始まると衛生兵として応召され陸軍病院へ配属。軍医学校での勤務中に終戦を迎えた。

1945年12月、軍隊時代の友人の紹介により、GHQに接収されていた東京會舘に勤務を始めます。

最初は雑役でしたが、開業準備中の煤だらけの宴会場の清掃や食器磨きなどからはじまり、翌年から営業再開となり、大きな宴会があるとバーテンダーが足りなくなったことから、臨時で宴会バーの応援に駆り出されるようになります。雑役から半年経過した頃に酒場のお館(チーフ・バーテンダー)であった本多春吉 氏からの誘いを受けて酒場担当となり、バーテンダーとしてのキャリアが本格的にスタートします。

東京會舘時代のはじめの師は、本多春吉 氏で、後から東京會舘に一時的に戻る本多氏の先輩になる浜田昌吾 氏、帝国ホテルからの浅倉進次郎 氏の2人からも指導していただき、3人を師事されたといいます。直属の先輩に今井清 氏という環境であったようです。修行時代、オープン前のバーの掃除では、浅倉 進次郎 氏からは年中叱られていたととも話しています。

東京會舘から出向となった、連合国軍将校クラブであった綱町三井倶楽部でも働き、来日したヘレン・ケラーを目撃したとのこと。ある日の晩に、アメリカの軍曹と喧嘩したといいます。ウェートレスとして接客したお嬢さんを酔った軍曹が誘惑しそうなので、あまり近寄らないようにと忠告したところ、山崎 氏を突き飛ばして喧嘩騒動になったとか。それが原因で、人員整理のときにクビになってしまったそうです。

その後は、太平洋保全司令部将校クラブを経て、横浜の「グルメ・グリル・エバー・アンドレー」でチーフも務めました。

1953年、東京會舘のチーフバーテンダーだった本多 氏から札幌行きを打診され、1年の予定であった札幌移住でしたが、「舶来居酒屋モンタナ」にチーフバーテンダーとしてしばらく勤務することになります。

1955年11月、全日本バーテンダー協会(ANBA)創立。会長には室井良介 氏、顧問に本多春吉 氏が就任。本多 氏から北海道に支部を作って欲しいと言われ、北海道にバー文化の基盤を築く。

1957年に財界の常連客から独立の話を持ちかけられたものの、その人物に資金をだまし取られる詐欺被害に遭う。しかし、見舞金を寄せたり、資金代わりに山崎氏の絵を購入したり、他の常連客様からの支援に恵まれ、1958年に「BARやまざき」を開店。

山崎 氏が創作されたゆうめなカクテルに「サッポロ」があります。

1972年札幌オリンピック開催に合わせて考案したカクテルで、1981年ジュネーブで行われた国際カクテルコンクールで特別賞を受賞した作品でもあります。

レシピは

ウォッカ20ml

アマレット20ml

シャルトリューズ・ヴェール10ml

ドライ・ヴェルモット10ml

ステアしてカクテルグラスに注ぎ、ミントチェリーをグラスに沈めるというもの。

1975年の火災で一度は店舗を焼失しましたが、翌1976年にはオーセンティックバーとして現在の克美ビルに店を再建されます。

1987年、日本バーテンダー協会北海道地区名誉会長に就任。

1993年には勲六等単光旭日章を受章。

90歳を過ぎても店に立ち続けたが、晩年は体調を考慮して1時間ほど顔を出すに留められていました。

2015年秋頃から体調を崩され、2016年8月からは自宅療養となりましたが、同年11月4日他界となってしまいました。

山崎 達郎 氏は、現役を貫いた生涯でございました。

2026/06/10

ミスター・マティーニ今井清 氏の話し

本日は伝説のバーテンダー、ミスター・マティーニこと今井 清(いまい きよし)氏のお話し。

1923年4月28日、石川県羽咋市生まれ。



今井 氏の叔母が横浜鶴見に暮らしており、隣の家に東京會舘のチーフバーテンダーを務めていた本多春吉 氏が住んでいました。

1939年、富山出身の本多 氏の弟子が戦争で応召されたため、本多氏は次も北陸の人間を育てたいと考えます。そこで同郷の今井 氏の叔母に相談。声をかけられた今井 氏は石川から上京し、東京に到着した翌日、買ったたばかりの靴を履き、本多 氏に連れられ帝国ホテルが委託経営していた東京會舘に向かいます。人事課の面接を受けましたが、本多 氏の紹介ということで形式で済み、酒場係として入社が決定しました。以来、本多氏に師事し、バーテンダーとしての道を歩むことになります。

写真下は、状況当時の今井 氏。



まず言葉の訓練から始まり、返答に田舎弁が混ざると何度も聞き返され、正確な言葉になるまで繰り返されたそうです。

今井 氏は、その時のことを「入社当初から言葉のハンデに苦しめられた。これも東京會舘という日本を代表する社交場に働く者として不可欠のことであったが、私にとって毎日が針のむしろであった」とインタビューで語られている。

帝国ホテル、東宝株式会社に勤務、1942年に国民徴用により日本製鋼横浜製作所・横銃製造所に勤めることになり、 1944年10月には召集令状が届き、厳しい状況下で兵役を努め終戦を迎え、1945年12月に東京會舘にもどります。

東京會館は、GHQに接収され、名称をアメリカン・クラブに変更する。會舘の近くにはGHQ総司令部が設置された第一生命ビルがあり、そこに勤務するアメリカ軍将校達相手に新たなバーテンダー修行が始まったといいます。

当時のアメリカン・クラブには、1階にメイン・バーとラウンジ・バー、3階にメイン・ダイニング、4階にはボール・ルームがあり毎晩ディナーとダンスが開かれていました。

バーテンダーは当時のチーフ・バーテンダーである本多春吉 氏以外には、今井清 氏、12月から見習いとして入社となった山崎 達郎 氏のみで、他は急遽集められたスタッフのみであったそうです。

心細かったスタッフもその後、浜田晶吾 氏、浅倉進次郎 氏、秋田清六 氏、田村清吉 氏といったメンバーが集まり、日本のバーテンダー史に名を刻んだ人物達と一緒に働く。

後に酒場主任(チーフバーテンダー)及び係長となる。

1946年に誕生した「會舘ジン・フィズ」ですが、正式に命名され本格的な提供が始まるのは、1949年の酒類自由販売解禁後からとなりました。ミルク入りのジン・フィズなのですが、パレスホテルに移られてからは「パレス・ジン・フィズ」と呼ぶ、ミルク入りのジン・フィズを広めた功労者でもあります。

ミスター・マティーニと呼ばれる様になったのは、いつからなのか?



今井 氏のマティーニ伝説は、東京會舘時代からのようです。

東京會舘のお客様であった保険会社社長が、ロンドンから、当時の東京會舘の社長宛に届いた手紙には「アメリカにも行き、ヨーロッパを巡るが、いまだ今井君に勝るドライマティーニに出会っていない。ということは今井君のマティーニは世界一ではなかろうか」と書かれていたという。

1950年代後半の電気冷蔵庫が一般流通する前の時代。今井 氏は、冷やしたジンでマティーニを作られていた先駆者でもありました。東京會舘では、割った氷をストックしておくボックスの周囲にジンやヴェルモットをセットしており冷やしていました。

「ジンという酒は、冷やすととてもまろやかになるんですね。ジンのボトルを冷やし、グラスを冷やし、ミキシング・グラスを冷やしておけば、多少手際が悪くても飲めるマティーニは作れるものなんです」と語られています。

 1961年からは、パレスホテル東京に移り、ロイヤルバーの初代チーフバーテンダーとなる。



パレスに移られてからの今井 氏のマティーニのレシピは、ゴードン・ジン55ml、ドライ・ヴェルモット15ml、オレンジ・ビターズ1dashをステアしてカクテルグラスに注ぎ、レモンピール、オリーブを飾るというもの。

晩年は、ドライ・ジンとドライ・ヴェルモットの割合は8対1であったようです。


1963年の調理師法施行10周年記念カクテル・コンクールにて「ライジング・サン」で厚生大臣賞を受賞。

レシピは、テキーラ30ml、シャルトリューズ・ジョーヌ20ml、コーディアル・ライム10mlをシェークして、ソルト・リムしたカクテル・グラスに注ぎ、スロージンを1tspドロップし、レッドチェリーを沈める。

1971年には、東京で開催された第12回IBAインターナショナル・カクテル・コンペティションにて「Hermes / ヘルメス」で準優勝。

レシピはテキーラ30ml、クレームドウメ20ml、ライムジュース10ml、アニゼット 1tspをシェークしてカクテル・グラスに注ぐ。

一般社団法人 日本ホテルバーメンズ協会(HBA)の前身であるホテルバーメンズクラブ(HBC) 初代専務理事に就任。

1984年にバーテンダーを引退。

私は今井 清 様のカクテル作成のお姿は遠くから拝見したことがあります。ステアは會舘ステアの源家のようなスタイルで、バースプーンの持ち手は、螺旋中央の少し上で、小指は外に出しておりますが、摘みから上のスプーンの回転が小さめの弧の描き方と記憶しています。シェークは、今で言うインフィニティ・シェークに近い動きでリズミカルに左から右へ横に流すような独特なシェーキングだったのを覚えいます。

また私がホテル・グランドパレスに勤務していた時代に、今井清 様に2度カクテルを作成し提供したことがあります。

今井 様は、月に1度ホテル・グランドパレスの一階にあった理髪店で髪を切り、メインバー・ロイヤルバーでモクテルの様なものを楽しまれていました。

今井 様は、ミスター・マティーニのイメージがあり、酒に強い方であると思っておりましたが、実は酒に弱い方でした。98年春のある日、今井 様が髪を切られた後にロイヤル・バーにお越しくださいました。ご来店時にマネージャーやキャプテン、先輩が食事に行かれたタイミングで、現場にバーテンダーは私しかおらず、社員食堂に連絡するも誰も捕まらず、私の勝手な判断で、僭越ながら今井 様のオーダーを伺い作らせていただきました。注文は「フレッシュ・オレンジ・シェーク」でした。

このチャンスにアピールをしようと気合いを入れ過ぎたハードシェークで仕上げて提供したことを覚えております。お帰りになられた後に、マネージャーが「どうして勝手な判断をした!」と怒られたことを覚えております。

二度と今井 様へのカクテルを提供することは叶わないと思っていたのですが、二度目のチャンスが訪れました。

レストランに女性二名と今井 様の三名でご来店され、食後に急遽カクテルを楽しまれるとのことでした。そのカクテルは、スタッフが全員解らず、カクテルに詳しいアイツならと、マネージャーが「北條、ガリアーノ・ホット・ショットって解る?」と聞かれ作ることに!

私が用意したガリアーノ・ホット・ショットはマネージャーが運び提供となりました。

75歳になられても、流行ものに対してアンテナを常にはられて新しいものをご存知で、カクテルに対する愛情が深い方なのだと感動したことを覚えています。

その半年後くらいの1999年1月28日に今井 様は他界となりました。

2026/06/09

會舘ステアのルーツ

今日は、東京會舘で古くから継承されてきた「會舘ステア」のルーツについてのお話です。

會舘ステアとは、バースプーンの螺旋の真ん中を持ち、上下均等に美しく弧を描きながら回転させる東京會舘独自の⁠ステア・スタイルのことです。

1992年に私の師匠である内山浩氏から「會舘ステアは、東京會舘本舘の高頭の親父(親方)がはじめた」と聞いたことがありました。

内山 氏は東京會舘で修行され、独立した方で、私は1992年よりバー・ピガールに勤務し、内山 氏の紹介で、1994年に東京會舘に入社。配属は浜松町東京會舘 Bar 39でした。当時の先輩で本館メインバーから移動してきた外川 功 氏の厳しい指導によりステアを修正され教えていただいたことを覚えています。

高頭徳一 親方は、東京會舘を1994年頃に引退された方で、退社後も日曜日に時々Bar 39にお越しくださり、Bar 39の当時のチーフバーテンダーであった大石清己 氏と将棋をされていたことを覚えております。私も一度だけ僭越ながら大石 氏の代理で高頭 親方の将棋にお付き合いさせていただいたことがありました。

写真下は、東京會舘本舘メインバーのチーフバーテンダー時代の高頭 親方です。



過去の『中央公論』の記事に「會舘出身のバーマンに共通している独特なステアのスタイルは、高頭が始めたもののようだ。」との記述を発見しました。

それまで私は、東京會舘に在籍されていたことがある“ミスター・マティーニ”と呼ばれた⁠今井清 氏から始まったのではないのか?あるいは今井氏の大先輩にあたる玉田芳太郎氏、浜田昌吾氏、浅倉進次郎氏、本多春吉氏、秋田清六氏、田村清吉氏といった往年の名バーテンダーのスタイル?もしくは「横浜グランドホテル」がルーツなのではないかとも考えていました。

しかし今回、貴重な証言を得ることができました。1952年に東京會舘に入社し、9年ほど勤務された吉田貢氏。

その吉田 氏や毛利隆雄 氏に師事して「Y&M BAR KISLING」に在籍していた鈴木俊矢 氏(現在は上海のSUZU BAR)から伺ったお話です。

會舘ステアの由来を調べておられた吉田 氏の生前の言葉によると、ご自身が在籍されていた1961年までは「會舘ステア」という呼び名はなかったのではないか、とのことでした。「いつの間にかそう呼ばれるようになっていた」という。

また吉田 氏が、先輩であった今井清 氏に直接尋ねた際も、今井氏が在籍していた1961年まではその名称はなかったと話していたそうです。

この証言から、それ以前に活躍されていた本多春吉氏らのステアも、当時はまだ「會舘ステア」と呼ばれていなかったことになります。

写真下は、ステアの技法でマティーニを作る吉田貢 氏です。持ち手はい會舘ステアと同じく小指を出すスタイルですが、バースプーンを摘んでいる位置が高いところにあり、上下したりする撹拌ですが、60年代からの會舘ステアと少し違うものでした。初期型會舘ステアという感じでしょうか。



私は一度、今井清 氏がマティーニを作成する様子を拝見したことがありましたが、吉田 氏と同じくスプーンを底から浮かせていたスタイルで、現在の會舘ステアも底から浮かせてはおりますが数ミリなので、少し違うかな?と思った記憶があります。今井 氏がステアをされている様子の写真を何枚か拝見いたしましたが、私が習得しているものと違う感じでした。



また1945年12月より、東京會舘の雑役として勤務し、半年後の1946年に酒場担当としてバーテンダーのキャリアをスタートさせた山崎達郎 氏の師は、東京會舘時代の本多春吉氏です。更に、後から東京會舘へ一時的に戻られた本多氏の先輩、浜田昌吾氏と浅倉進次郎氏の2人からも指導を受け、山崎氏はこの3人を師と仰いでいました。そのいずれかの方から伝授された山崎氏のステアは、バースプーンの螺旋の摘みが上の方です(写真下)



また本多春吉 氏のステアの様子は、このようにも書かれている「スプーンの背をグラスの内壁につけて回しながら、手前にきた時は下げ、向側に行った時は上げる。右回り」。本多 氏は、いわゆる會舘ステアではなかったと思われます。

會舘ステアが1960年代に登場したのだとすれば、その時代の在籍者から始まったと考えるのが自然かもしれません。

となると、昭和36年(1961年)に東京會舘の本館チーフバーテンダーに就任された高頭徳一親方である可能性が現実味を帯びてきます。

高頭 親方は、1947年(昭和22年)に東京會舘に入社。會舘ジン・フィズの提供が始まった1年後で、本多春吉 氏が親方の時代で、今井 清 氏、山崎 達郎 氏が先輩という柑橘です。



私の師である内山浩 氏は、東京會舘本舘メインバーに1968年まで在籍されていました。そして内山 氏の直属の後輩として1966年に入社された上田和男 氏もまた、會舘ステアは高頭親方が始めたものと見受けられていらっしゃいます。

1969年には、東京會舘(交通會舘銀座スカイラウンジ)でアルバイトをはじめる毛利隆雄 氏も在籍中に會舘ステアを習得されておられます。以前東京から八戸間の新幹線でご一緒にさせていただき、3時間程お話しさせていただいた中で、會舘ステアは「高頭の親父に教わった」と話されておりました。

写真下は、我が師の内山 浩 氏。





写真上は、1994年浜松町東京會舘 Bar 39時代の北條智之。

「會舘ステア」は本当に高頭徳一 親方から始まった名技法なのかもしれません。この技法名とスタイルを体系化し広めた人物であることは間違いないと思われます。

高橋徳一 親方にステアを教えた師は誰であったのか?

いつか解ったら続きを書きたいと思います。

2026/06/07

日本バーテンダー協会初のカクテル・コンペティションは1949年にノンアルコール・カクテル大会として開催された!

日本バーテンダー協会(JBA)主催のカクテル・コンペティションは何年から開催され、最初の優勝カクテルはどのようなレシピであったのかを調べてみました。

JBAは、1929年(昭和4年)5月1日に東京・神田パリスで発起人の荻野 直寿 氏、高橋 願次郎 氏、大阪 登章 氏、浜田 晶吾 氏、浅倉 進次郎 氏、鈴木 豊松 氏、 室井 光江 氏、本多 春吉 氏    斉藤 武雄 氏    高橋 徳兵衛 氏、玉田 芳太郎 氏、田村 八十八 氏、田村 清吉 氏、薄井 常雄 氏、伊藤 裕章 氏の15名と集まった40名で結成式が開催されました。

1931年から戦争がはじまり、満州事変から太平洋戦争(大東亜戦争)までの「十五年戦争」 で、自然消滅していた協会でしたが、1948年7月27日に再結成式が開催され、活動が再開します。

JBA主催の最初となるカクテル・コンペティションは、日本初のノンアルコール・カクテル大会でした。

1949年5月7日、戦後の酒類自由販売解禁の4日前となる 5月3日、東京・丸の内の日本工業倶楽部にて「全日本ソフトドリンク・コンクール」決勝が開催されます。

決勝審査員は料飲新聞関係から2名、料飲業者界からは壽屋やウィルキンソンタンサン社、コーヒー店より4名、有名人では東映監督や俳優の三船敏郎 氏、森 雅之 氏、アナウンサー、文士、漫談家から8名の合計14名で審査され、壹等1名、貮等1名、参等1名、佳作5名の入賞8作品が選出されました。

翌年の1950年の第2回は「オールジャパン・ドリンクス・コンクール」となり有名なカクテル「青い珊瑚礁」が誕生する。

全日本ソフトドリンク・コンクールの応募は2503作品にのぼり、1949年4月28日に第1予選会、5月1日に第2審査会が開催され決勝には8作品が選ばれました。

壹等(優勝)は、東京の杉田 幸一 選手が創作した【スノー・フジヤマ】でした。




●「スノー・フジヤマ」のレシピ

パイナップル・ジュース 90ml

フレッシュ・レモンジュース 1/3個分(15ml程)

砂糖  デザートスプーン 1杯(約3g)

上記をシェークして、氷を入れたソーダ・グラス(クリームソーダに使われる足付きグラス)に注ぎ、ホイップクリームを浮かべ、レッドチェリーを飾る。ストロー2本とロングスプーンを添える。




貮等は、須藤 勝 選手(東京) 作品名「サマー・デライト」

参等は、落合 謙二 選手(東京)作品名「ピース・バター」



佳作の5作品は「エバー・グリン」「オリエンタル・レモネード」「ストロベリー・シェーク」「シヤンクール」「バイオレット・スマイル」でした。


2026/05/13

日本のバー誕生の地 横濱の話 ㉑チェリー・ブロッサム

本日5月13日は「カクテルの日」!

横浜で誕生したとされるカクテル「チェリー・ブロッサム」を紹介いたします。

横浜のカクテルバー・パリの田尾多三郎 様が1923年12月頃に考案と伝わります。

田尾多三郎 様は、1893年の生まれ。

田尾 様は、大正時代に貿易会社の南米アルゼンチン支社長として活躍し、帰国後の1923年の関東大震災の後に伊勢佐木町で「カフェ・ド・パリ」を開店。

カフェ・ド・パリの初代チーフ バーテンダーは、東洋汽船外国航路のキャビンバーテンダーで日本バーテンダー協会創立発起人15人の1人となる高橋 徳兵衛 氏でした。

1945年5月の空襲前は横浜市中区尾上町4-49にありましたが、で焼失後は戦後は野毛山に移転し、1963年には現在の常盤町に移転する。

写真下はパリ様の昔のメニューに描かれる4階建ての「TAO Building」。描かれる弁天通り時代はバーとレストランもあったことが確認できます。




写真上は横浜大空襲前の時代の住所を示すもの。

チェリー・ブロッサムは、お店がオープンしたばかりで社交場として一番華やかだった戦前のカフェ・ド・パリ時代にカナディアン・クラブのキャンペーンをきっかけに創作したもので、1927年の世界大会で優勝した作品であることを田尾多三郎 様の奥様の幸子 様から聞いた事があります。

日本バーテンダー協会(JBA)が、1929年(昭和4年)に設立されたとので、JBAからの日本代表としてIBA世界大会に出場したのではないとなると、1927年の世界大会とは何の大会であったかは不明です。





カクテルバー・パリのチェリー・ブロッサムのレシピは、カナディアン・クラブにピーター・ヒーリング、チンザノ・ロッソ、レモン・ジュース、マラスキーノをシェークしたショート・カクテルで、デコレーションにレッド・チェリーを沈めます。



世界的に知られるブランデー・ベースのチェリーブロッサムは、1930年に出版されたロンドン・サボイホテルのカクテル本からレシピが変えられたと伝えられてきました。

しかしそれは、田尾 様が起源のものではなく、ヨーロッパで誕生したものと思われます。 

フランスで1900年4月に発行されたフランク・ニューマン氏のカクテル本「1900-American-Bar Boissons Anglaises et Americaines」に現在一般的に知られているブランデー・ベースのチェリー・ブロッサムのレシピが掲載されていました!

(2020年5月14日に当ブログでも紹介)↓

catman.bar-nemanja.com/2020/05/1900.html?m=1






おそらく先にブランデー・ベースのチェリー・ブロッサムが考案されており、後にカフェ・ド・パリが同名でカナディアン・ウィスキー・ベースのチェリー・ブロッサムが考案されたと推測します。

また1933年のカクテル本「Odell's book of Cocktails and Fancy Drinks」に2つのチェリーブロッサムが掲載されています。





そこにはチェリー・ブランデー、フレンチ・ヴェルモット同量、ピーチビターがダッシュというレシピと、もう一つはチェリー・ブロッサム・カクテル(Mr. Tao's Formula)と書かれるものが掲載されています。Tao'sレシピは、カナディアン・クラブ、チェリーブランデー、イタリアン・ヴェルモットが同量、マラスキーノがダッシュとなっています。

掲載のレシピは完全なものではないのですが、かなり近いもので書かれています。

また田尾多三郎 様の最後の創作カクテルは「ブルー・ライト・ヨコハマ」で、1968年12月に考案したもの。



ウォッカ1/2、ブルーキュラソー1/4、レモンジュース1/4をシェークしたショート・カクテルで、レッド・チェリーが沈みます。

田尾多三郎 様は. 1952年4月24日JBA神奈川支部設立の初代支部長に就任 。1971年に他界となりました。

2026/04/12

銀座にあった古川緑郎 氏の伝説のバー「クール」

 1929年、古川緑郎 様は13歳の時、西川千代 氏が経営していた銀座の「サン・スーシー」の少年ボーイ募集でバーの世界に入ったといわれます。

師匠は大正時代の東洋汽船外国航路のキャビンバーテンダーであった高橋徳兵衛 氏。2人目の師は、田村 八十八 氏であったそうです。

高橋 徳兵衛 氏は横浜のカフェ・ド・パリ(現在の横浜・関内のカクテルバー・パリ)の初代チーフ バーテンダーで、日本バーテンダー協会創立発起人15人の1人で、その後1923年12月に開店した銀座サンスーシに移られた方。サンスーシの内装デザインは、カフェ・ド・パリのオーナー・バーテンダー 田尾多三郎 氏の奥様の姉に協力してもらい。バーテンダーの高橋徳兵衛氏も送り込んだといわれます。

古川緑郎 様は、修行後の1948年に独立となり、銀座8丁目に「クール」を開店。店名は横浜のカフェ・ド・パリのお客様だった谷崎潤一郎 氏が命名した。

写真下は、クール開店当初の古川ご夫妻。







店名のクールのスペルはCool ではなく「Kool」。

メンソール入りのたばこのパッケージの色と緑郎 様の緑にかけてとのことで、看板も緑色でした。

1971年にはコリドー街銀座7丁目に移り、2003年11月19日の古川緑郎 様の米寿(88歳)の誕生日のタイミングに閉店となりました。

最終日はコリドー街の角を曲がったところまで行列ができたそうです。

また2003年はミスターバーテンダーも受賞された年でした。

2012年1月7日、享年97歳でございました。


私は1994年に古川緑郎 様が現役でいらっしゃる時代に、お伺いさせていただいたことがありました。当時、私は20歳の若者でしたので古川緑郎 様が直接作られるカクテルをいただくことは叶いませんでしたが、お店のオリジナル・カクテルをいただいたことがありました。

オリジナル・カクテルも沢山ありましたが、一部紹介させていただきます。デコレーションには全てミント・チェリーが入り、古川緑郎 様のお名前の「緑」のチェリーが飾られていました。


【Kool Original  Cocktail】


●クールNo.1

ウォッカ1/2、キルシュ1/2をシェークして、カクテル・グラスに注ぐ。ミント・チェリーを沈める。

●クールNo.2

ホワイト・ラム1/3、ガリアーノ1/3、レモン・ジュース1/3をシェークして、カクテル・グラスに注ぐ。ミント・チェリーを沈める。

●クールNo.3

テキーラ2/3、ドライ・ヴェルモット1/3、アンゴスチュラ・ビターズ 1ダッシュをシェークして、カクテル・グラスに注ぐ。ミント・チェリーを沈める。

●クールNo.4

ウォッカ1/2、サザンコンフォート1/2をシェークして、カクテル・グラスに注ぐ。ミント・チェリーを沈める。

●クールNo.5

ダークラム2/3、ドライ・ヴェルモット1/3、アンゴスチュラ・ビターズ 1ダッシュをシェークして、カクテル・グラスに注ぐ。ミント・チェリーを沈める。

●クールNo.6

ブレンデッド・スコッチ1/2、ドランブイ1/2、アンゴスチュラ・ビターズ 1ダッシュをシェークして、カクテル・グラスに注ぐ。ミント・チェリーを沈める。

●クールNo.7

バーボン2/3、ドライ・ヴェルモット1/3、アンゴスチュラ・ビターズ 1ダッシュをシェークして、カクテル・グラスに注ぐ。ミント・チェリーを沈める。

●クールNo.8

ウォッカ2/3、フレッシュ・ライム、ジュース1/3、グリーン・ミント・リキュール 1ダッシュをシェークして、カクテル・グラスに注ぐ。ミント・チェリーを沈める。

●クールNo.9

ウォッカ1/2、リカール1/2、グリーン・ミント・リキュール 1ダッシュをシェークして、カクテル・グラスに注ぐ。ミント・チェリーを沈める。

●クールNo.10

カナディアン・ウイスキー40ml、角砂糖1個、アンゴスチュラ・ビターズ 2ダッシュ、氷を入れたロック・グラスに注ぎビルド。ミント・チェリーを沈める。

●クールNo.11

ドライジン1/2、キルシュ1/2をシェークして、カクテル・グラスに注ぐ。ミント・チェリーを沈める。


●クール・スペシャル

ロンリコ151ラム2/3、ドライ・ヴェルモット1/3、アンゴスチュラ・ビターズ 1ダッシュをシェークして、カクテル・グラスに注ぐ。ミント・チェリーを沈める。