2026/06/20

日本最高齢のバーテンダーで生涯現役を貫かれた「山崎 達郎」氏のお話し。

本日は、北海道札幌市すすきのに「BARやまざき」を開業し、同市にオーセンティックバーが広まる基礎を築いたバーテンダー山崎 達郎(やまざき たつろう)氏のお話し。

「日本最高齢のバーテンダー」で「北海道バーテンダーの草分け」とも称され伝説の方です。



1920年6月28日。東京府東京市小石川区(現・東京都文京区)に生まれる。

幼少期は絵を描くことを好まれ、画家を志望していたと言われます。ご両親を亡くされたことを機に1937年頃から染物業をされます。

第二次世界大戦が始まると衛生兵として応召され陸軍病院へ配属。軍医学校での勤務中に終戦を迎えた。

1946年12月、軍隊時代の友人の紹介により、GHQに接収されていた東京會舘に勤務を始めます。

最初は雑役でしたが、開業準備中の煤だらけの宴会場の清掃や食器磨きなどからはじまり、翌年から営業再開となり、大きな宴会があるとバーテンダーが足りなくなったことから、臨時で宴会バーの応援に駆り出されるようになります。雑役から半年経過した頃に酒場のお館(チーフ・バーテンダー)であった本多春吉 氏からの誘いを受けて酒場担当となり、バーテンダーとしてのキャリアが本格的にスタートします。

東京會舘時代のはじめの師は、本多春吉 氏で、後から東京會舘に一時的に戻る本多氏の先輩になる浜田昌吾 氏、浅倉進次郎 氏の2人からも指導していただき、3人を師事されたといいます。直属の先輩に今井清 氏という環境であったようです。修行時代、オープン前のバーの掃除では、浅倉 進次郎 氏からは年中叱られていたととも話しています。

東京會舘から出向となった、連合国軍将校クラブであった綱町三井倶楽部でも働き、来日したヘレン・ケラーを目撃したとのこと。ある日の晩に、アメリカの軍曹と喧嘩したといいます。ウェートレスとして接客したお嬢さんを酔った軍曹が誘惑しそうなので、あまり近寄らないようにと忠告したところ、山崎 氏を突き飛ばして喧嘩騒動になったとか。それが原因で、人員整理のときにクビになってしまったそうです。

その後は、太平洋保全司令部将校クラブを経て、横浜の「グルメ・グリル・エバー・アンドレー」でチーフも務めました。

1953年、東京會舘のチーフバーテンダーだった本多 氏から札幌行きを打診され、1年の予定であった札幌移住でしたが、「舶来居酒屋モンタナ」にチーフバーテンダーとしてしばらく勤務することになります。

1955年11月、全日本バーテンダー協会(ANBA)創立。会長には室井良介 氏、顧問に本多春吉 氏が就任。本多 氏から北海道に支部を作って欲しいと言われ、北海道にバー文化の基盤を築く。

1957年に財界の常連客から独立の話を持ちかけられたものの、その人物に資金をだまし取られる詐欺被害に遭う。しかし、見舞金を寄せたり、資金代わりに山崎氏の絵を購入したり、他の常連客様からの支援に恵まれ、1958年に「BARやまざき」を開店。

山崎 氏が創作されたゆうめなカクテルに「サッポロ」があります。

1972年札幌オリンピック開催に合わせて考案したカクテルで、1981年ジュネーブで行われた国際カクテルコンクールで特別賞を受賞した作品でもあります。

レシピは

ウォッカ20ml

アマレット20ml

シャルトリューズ・ヴェール10ml

ドライ・ヴェルモット10ml

ステアしてカクテルグラスに注ぎ、ミントチェリーをグラスに沈めるというもの。

1975年の火災で一度は店舗を焼失しましたが、翌1976年にはオーセンティックバーとして現在の克美ビルに店を再建されます。

1987年、日本バーテンダー協会北海道地区名誉会長に就任。

1993年には勲六等単光旭日章を受章。

90歳を過ぎても店に立ち続けたが、晩年は体調を考慮して1時間ほど顔を出すに留められていました。

2015年秋頃から体調を崩され、2016年8月からは自宅療養となりましたが、同年11月4日他界となってしまいました。

山崎 達郎 氏は、現役を貫いた生涯でございました。