【本日のお手伝いさん】
本日はキャリアも8年程あるバーテンダー がシフト入りしています!
彼は7年も前からネマニャで働きたいと言ってくれている人で、本日念願の叶ってスーパー・ヘルプで来てもらってます^ ^
ご存知のお客様も多いのではないでしょうか?
ダブル台風の影響で雨風が強い本日でしたが、もう通過したでしょうか?
今夜は、くれぐれもお気をつけてお過ごしください。
【一般社団法人 全日本フレア・バーテンダーズ協会(ANFA)名誉会長】 【アジア・バーテンダーズ協会(ABA)相談役】 【フェルディナンズ・ジャパン・ブランド・アンバサダー】 【特許取得 日本初のノンアルコールジンNEMA0.00%創業者・開発者】 カクテルバー・ネマニャ・北條智之のブログです。
【本日のお手伝いさん】
本日はキャリアも8年程あるバーテンダー がシフト入りしています!
彼は7年も前からネマニャで働きたいと言ってくれている人で、本日念願の叶ってスーパー・ヘルプで来てもらってます^ ^
ご存知のお客様も多いのではないでしょうか?
ダブル台風の影響で雨風が強い本日でしたが、もう通過したでしょうか?
今夜は、くれぐれもお気をつけてお過ごしください。
戦前の著名なバーテンダー大阪 登章 氏のお話し。
大阪 登章(おおさか たかあき)
1889年生まれ。
1905年 (明治38年)に16歳で東京オリエンタルホテルに入社。
その後、神戸の東亜ホテルに勤める。
1919年に帝国ホテルのチーフ・バーテンダーとなる。
1922年4月16日、帝国ホテルの初代本館は、地下室からの出火による火災で全焼となる。
帝国ホテルは、被害を免れた一部の施設を利用して営業を再開します。
1923年7月に帝国ホテル2代目本館・通称ライト館完成。完成を記念した9月1日の落成披露宴の当日に関東大震災が発生。ライト館は倒壊を免れ、その後の火事でも無事で被害は少なかったと言われます。
帝国ホテルのシグネチャー・カクテルとして長く親しまれている「マウント・フジ」は、2代目本館が完成後に考案されたと推測されます。
世界一周旅行のクルーズ船で欧米の一行が来日した際に帝国ホテルで行われた祝賀パーティーのウェルカムカクテルとして考案されたと言われます。
ウェルカム・カクテルは当時、帝国ホテルの常務であった山口 正造 氏がチーフバーテンダーの大阪 氏に依頼して創作されたと考えられています。
山口 正造 氏は、富士屋ホテルの専務取締役でしたが、失火直後の1922年6月から帝国ホテルの支配人として一時的に着任し、1925年まで常務として務められた方です。
大阪 氏は、帝国ホテルを辞めた後は、丸ビルの東洋軒でチーフ・バーテンダー、華族会館でもチーフ、戦前日本軍が接収していたマニラ・ホテルでもチーフを歴任する。
1920年代後半には、横浜市中区伊勢佐木町二丁目の横濱バー・パリジヤンに所蔵していたことが解っている。
1929年には、大阪 登章 氏著のカクテル本も出版される。
この本に「マウント・フジ」のレシピ掲載は無いですが、「ミリオンダラー」と「ヨコハマ」が掲載されており、1920年代には日本にはあったことも確認ができる。
また1929年は、日本バーテンダー協会(J.B.A)誕生し、発起人15名の1人として名を連ねます。
やまがた紅王(べにおう)」が入荷しました。
「佐藤錦」「紅秀峰」に続く山形のさくらんぼとして期待されているとのこと。
甘さと酸味のバランスが素晴らしく、とても美味しいです。
おすすめカクテルは【やまがた紅王のフローズン・ピスコ・サワー】です。旬の美味しさを是非お試しください。
さくらんぼも添えてご提供します。
旬の美味しさを是非お試しください
本日は、北海道札幌市すすきのに「BARやまざき」を開業し、同市にオーセンティックバーが広まる基礎を築いたバーテンダー山崎 達郎(やまざき たつろう)氏のお話し。
「日本最高齢のバーテンダー」で「北海道バーテンダーの草分け」とも称され伝説の方です。
1920年6月28日。東京府東京市小石川区(現・東京都文京区)に生まれる。
幼少期は絵を描くことを好まれ、画家を志望していたと言われます。ご両親を亡くされたことを機に1937年頃から染物業をされます。
第二次世界大戦が始まると衛生兵として応召され陸軍病院へ配属。軍医学校での勤務中に終戦を迎えた。
1945年12月、軍隊時代の友人の紹介により、GHQに接収されていた東京會舘に勤務を始めます。
最初は雑役でしたが、開業準備中の煤だらけの宴会場の清掃や食器磨きなどからはじまり、翌年から営業再開となり、大きな宴会があるとバーテンダーが足りなくなったことから、臨時で宴会バーの応援に駆り出されるようになります。雑役から半年経過した頃に酒場のお館(チーフ・バーテンダー)であった本多春吉 氏からの誘いを受けて酒場担当となり、バーテンダーとしてのキャリアが本格的にスタートします。
東京會舘時代のはじめの師は、本多春吉 氏で、後から東京會舘に一時的に戻る本多氏の先輩になる浜田昌吾 氏、帝国ホテルからの浅倉進次郎 氏の2人からも指導していただき、3人を師事されたといいます。直属の先輩に今井清 氏という環境であったようです。修行時代、オープン前のバーの掃除では、浅倉 進次郎 氏からは年中叱られていたととも話しています。
東京會舘から出向となった、連合国軍将校クラブであった綱町三井倶楽部でも働き、来日したヘレン・ケラーを目撃したとのこと。ある日の晩に、アメリカの軍曹と喧嘩したといいます。ウェートレスとして接客したお嬢さんを酔った軍曹が誘惑しそうなので、あまり近寄らないようにと忠告したところ、山崎 氏を突き飛ばして喧嘩騒動になったとか。それが原因で、人員整理のときにクビになってしまったそうです。
その後は、太平洋保全司令部将校クラブを経て、横浜の「グルメ・グリル・エバー・アンドレー」でチーフも務めました。
1953年、東京會舘のチーフバーテンダーだった本多 氏から札幌行きを打診され、1年の予定であった札幌移住でしたが、「舶来居酒屋モンタナ」にチーフバーテンダーとしてしばらく勤務することになります。
1955年11月、全日本バーテンダー協会(ANBA)創立。会長には室井良介 氏、顧問に本多春吉 氏が就任。本多 氏から北海道に支部を作って欲しいと言われ、北海道にバー文化の基盤を築く。
1957年に財界の常連客から独立の話を持ちかけられたものの、その人物に資金をだまし取られる詐欺被害に遭う。しかし、見舞金を寄せたり、資金代わりに山崎氏の絵を購入したり、他の常連客様からの支援に恵まれ、1958年に「BARやまざき」を開店。
山崎 氏が創作されたゆうめなカクテルに「サッポロ」があります。
1972年札幌オリンピック開催に合わせて考案したカクテルで、1981年ジュネーブで行われた国際カクテルコンクールで特別賞を受賞した作品でもあります。
レシピは
ウォッカ20ml
アマレット20ml
シャルトリューズ・ヴェール10ml
ドライ・ヴェルモット10ml
ステアしてカクテルグラスに注ぎ、ミントチェリーをグラスに沈めるというもの。
1975年の火災で一度は店舗を焼失しましたが、翌1976年にはオーセンティックバーとして現在の克美ビルに店を再建されます。
1987年、日本バーテンダー協会北海道地区名誉会長に就任。
1993年には勲六等単光旭日章を受章。
90歳を過ぎても店に立ち続けたが、晩年は体調を考慮して1時間ほど顔を出すに留められていました。
2015年秋頃から体調を崩され、2016年8月からは自宅療養となりましたが、同年11月4日他界となってしまいました。
山崎 達郎 氏は、現役を貫いた生涯でございました。
今週はネマニャの小庭で育てているクチナシが綺麗に咲きました^ ^
今年も【スコーピオン】をご提供させていただいております。
1930年代後半にカリフォルニア州オークランドにあるTrader Vic'sのVictor Bergeron氏が考案したカクテルです。
ネマニャではラルースのスタイルでご提供します。
レシピはホワイトラム、コニャック、オレンジジュース、レモンジュース、オルジェ シロップ。クチナシの花を添えています。
クチナシの甘い香りとカクテルのサッパリとした口当たりに、初夏の到来を感じる一杯。数量限定です。
是非お試しくださいませ!
6月に入り薔薇が咲き誇る季節となりました^ ^
今年も農薬不使用栽培のアサオカローズ様の食用薔薇「オーバーナイトセンセーション 」が届きました!
当店のローアルコール・カクテル1番人気となっている【Rose Port Sling / ローズポート・スリング】
薔薇と港の街"横浜"をイメージしたカクテルで、低アルコール版のシンガポール・スリングのようなカクテルとなっています。
ノンアルコールジンNEMA0.00%スタンダード、ヒーリング・チェリー・リキュール、パイナップル・ジュース、レモン・ジュース、グレナデン・シロップで作り、オーバーナイトセンセーションとミントの葉を飾ります。
是非お試しくださいませ!
本日は伝説のバーテンダー、ミスター・マティーニこと今井 清(いまい きよし)氏のお話し。
1923年4月28日、石川県羽咋市生まれ。
今井 氏の叔母が横浜鶴見に暮らしており、隣の家に東京會舘のチーフバーテンダーを務めていた本多春吉 氏が住んでいました。
1939年、富山出身の本多 氏の弟子が戦争で応召されたため、本多氏は次も北陸の人間を育てたいと考えます。そこで同郷の今井 氏の叔母に相談。声をかけられた今井 氏は石川から上京し、東京に到着した翌日、買ったたばかりの靴を履き、本多 氏に連れられ帝国ホテルが委託経営していた東京會舘に向かいます。人事課の面接を受けましたが、本多 氏の紹介ということで形式で済み、酒場係として入社が決定しました。以来、本多氏に師事し、バーテンダーとしての道を歩むことになります。
写真下は、状況当時の今井 氏。
まず言葉の訓練から始まり、返答に田舎弁が混ざると何度も聞き返され、正確な言葉になるまで繰り返されたそうです。
今井 氏は、その時のことを「入社当初から言葉のハンデに苦しめられた。これも東京會舘という日本を代表する社交場に働く者として不可欠のことであったが、私にとって毎日が針のむしろであった」とインタビューで語られている。
帝国ホテル、東宝株式会社に勤務、1942年に国民徴用により日本製鋼横浜製作所・横銃製造所に勤めることになり、 1944年10月には召集令状が届き、厳しい状況下で兵役を努め終戦を迎え、1945年12月に東京會舘にもどります。
東京會館は、GHQに接収され、名称をアメリカン・クラブに変更する。會舘の近くにはGHQ総司令部が設置された第一生命ビルがあり、そこに勤務するアメリカ軍将校達相手に新たなバーテンダー修行が始まったといいます。
当時のアメリカン・クラブには、1階にメイン・バーとラウンジ・バー、3階にメイン・ダイニング、4階にはボール・ルームがあり毎晩ディナーとダンスが開かれていました。
バーテンダーは当時のチーフ・バーテンダーである本多春吉 氏以外には、今井清 氏、12月から見習いとして入社となった山崎 達郎 氏のみで、他は急遽集められたスタッフのみであったそうです。
心細かったスタッフもその後、浜田昌吾 氏、浅倉進次郎 氏、秋田清六 氏、田村清吉 氏といったメンバーが集まり、日本のバーテンダー史に名を刻んだ人物達と一緒に働く。
ミスター・マティーニと呼ばれる様になったのは、いつからなのか?
今井 氏のマティーニ伝説は、東京會舘時代からのようです。
東京會舘のお客様であった保険会社社長が、ロンドンから、当時の東京會舘の社長宛に届いた手紙には「アメリカにも行き、ヨーロッパを巡るが、いまだ今井君に勝るドライマティーニに出会っていない。ということは今井君のマティーニは世界一ではなかろうか」と書かれていたという。
1961年からは、パレスホテル東京に移り、ロイヤルバーの初代チーフバーテンダーとなる。
パレスに移られてからの今井 氏のマティーニのレシピは、ゴードン・ジン55ml、ドライ・ヴェルモット15ml、オレンジ・ビターズ1dashをステアしてカクテルグラスに注ぎ、レモンピール、オリーブを飾るというもの。
晩年は、ドライ・ジンとドライ・ヴェルモットの割合は8対1であったようです。
1963年の調理師法施行10周年記念カクテル・コンクールにて「ライジング・サン」で厚生大臣賞を受賞。
レシピは、テキーラ30ml、シャルトリューズ・ジョーヌ20ml、コーディアル・ライム10mlをシェークして、ソルト・リムしたカクテル・グラスに注ぎ、スロージンを1tspドロップし、レッドチェリーを沈める。
1971年には、東京で開催された第12回IBAインターナショナル・カクテル・コンペティションにて「Hermes / ヘルメス」で準優勝。
レシピはテキーラ30ml、クレームドウメ20ml、ライムジュース10ml、アニゼット 1tspをシェークしてカクテル・グラスに注ぐ。
一般社団法人 日本ホテルバーメンズ協会(HBA)の前身であるホテルバーメンズクラブ(HBC) 初代専務理事に就任。
1984年にバーテンダーを引退。
私は今井 清 様のカクテル作成のお姿は遠くから拝見したことがあります。ステアは會舘ステアの源家のようなスタイルで、バースプーンの持ち手は、螺旋中央の少し上で、小指は外に出しておりますが、摘みから上のスプーンの回転が小さめの弧の描き方と記憶しています。シェークは、今で言うインフィニティ・シェークに近い動きでリズミカルに左から右へ横に流すような独特なシェーキングだったのを覚えいます。
また私がホテル・グランドパレスに勤務していた時代に、今井清 様に2度カクテルを作成し提供したことがあります。
今井 様は、月に1度ホテル・グランドパレスの一階にあった理髪店で髪を切り、メインバー・ロイヤルバーでモクテルの様なものを楽しまれていました。
今井 様は、ミスター・マティーニのイメージがあり、酒に強い方であると思っておりましたが、実は酒に弱い方でした。98年春のある日、今井 様が髪を切られた後にロイヤル・バーにお越しくださいました。ご来店時にマネージャーやキャプテン、先輩が食事に行かれたタイミングで、現場にバーテンダーは私しかおらず、社員食堂に連絡するも誰も捕まらず、私の勝手な判断で、僭越ながら今井 様のオーダーを伺い作らせていただきました。注文は「フレッシュ・オレンジ・シェーク」でした。
このチャンスにアピールをしようと気合いを入れ過ぎたハードシェークで仕上げて提供したことを覚えております。お帰りになられた後に、マネージャーが「どうして勝手な判断をした!」と怒られたことを覚えております。
二度と今井 様へのカクテルを提供することは叶わないと思っていたのですが、二度目のチャンスが訪れました。
レストランに女性二名と今井 様の三名でご来店され、食後に急遽カクテルを楽しまれるとのことでした。そのカクテルは、スタッフが全員解らず、カクテルに詳しいアイツならと、マネージャーが「北條、ガリアーノ・ホット・ショットって解る?」と聞かれ作ることに!
私が用意したガリアーノ・ホット・ショットはマネージャーが運び提供となりました。
75歳になられても、流行ものに対してアンテナを常にはられて新しいものをご存知で、カクテルに対する愛情が深い方なのだと感動したことを覚えています。
その半年後くらいの1999年1月28日に今井 様は他界となりました。
今日は、東京會舘で古くから継承されてきた「會舘ステア」のルーツについてのお話です。
會舘ステアとは、バースプーンの螺旋の真ん中を持ち、上下均等に美しく弧を描きながら回転させる東京會舘独自のステア・スタイルのことです。
1992年に私の師匠である内山浩氏から「會舘ステアは、東京會舘本舘の高頭の親父(親方)がはじめた」と聞いたことがありました。
内山 氏は東京會舘で修行され、独立した方で、私は1992年よりバー・ピガールに勤務し、内山 氏の紹介で、1994年に東京會舘に入社。配属は浜松町東京會舘 Bar 39でした。当時の先輩で本館メインバーから移動してきた外川 功 氏の厳しい指導によりステアを修正され教えていただいたことを覚えています。
高頭徳一 親方は、東京會舘を1994年頃に引退された方で、退社後も日曜日に時々Bar 39にお越しくださり、Bar 39の当時のチーフバーテンダーであった大石清己 氏と将棋をされていたことを覚えております。私も一度だけ僭越ながら大石 氏の代理で高頭 親方の将棋にお付き合いさせていただいたことがありました。
写真下は、東京會舘本舘メインバーのチーフバーテンダー時代の高頭 親方です。
過去の『中央公論』の記事に「會舘出身のバーマンに共通している独特なステアのスタイルは、高頭が始めたもののようだ。」との記述を発見しました。
それまで私は、東京會舘に在籍されていたことがある“ミスター・マティーニ”と呼ばれた今井清 氏から始まったのではないのか?あるいは今井氏の大先輩にあたる玉田芳太郎氏、浜田昌吾氏、浅倉進次郎氏、本多春吉氏、秋田清六氏、田村清吉氏といった往年の名バーテンダーのスタイル?もしくは「横浜グランドホテル」がルーツなのではないかとも考えていました。
しかし今回、貴重な証言を得ることができました。1952年に東京會舘に入社し、9年ほど勤務された吉田貢氏。
その吉田 氏や毛利隆雄 氏に師事して「Y&M BAR KISLING」に在籍していた鈴木俊矢 氏(現在は上海のSUZU BAR)から伺ったお話です。
會舘ステアの由来を調べておられた吉田 氏の生前の言葉によると、ご自身が在籍されていた1961年までは「會舘ステア」という呼び名はなかったのではないか、とのことでした。「いつの間にかそう呼ばれるようになっていた」という。
また吉田 氏が、先輩であった今井清 氏に直接尋ねた際も、今井氏が在籍していた1961年まではその名称はなかったと話していたそうです。
この証言から、それ以前に活躍されていた本多春吉氏らのステアも、当時はまだ「會舘ステア」と呼ばれていなかったことになります。
写真下は、ステアの技法でマティーニを作る吉田貢 氏です。持ち手はい會舘ステアと同じく小指を出すスタイルですが、バースプーンを摘んでいる位置が高いところにあり、上下したりする撹拌ですが、60年代からの會舘ステアと少し違うものでした。初期型會舘ステアという感じでしょうか。
私は一度、今井清 氏がマティーニを作成する様子を拝見したことがありましたが、吉田 氏と同じくスプーンを底から浮かせていたスタイルで、現在の會舘ステアも底から浮かせてはおりますが数ミリなので、少し違うかな?と思った記憶があります。今井 氏がステアをされている様子の写真を何枚か拝見いたしましたが、私が習得しているものと違う感じでした。
また1945年12月より、東京會舘の雑役として勤務し、半年後の1946年に酒場担当としてバーテンダーのキャリアをスタートさせた山崎達郎 氏の師は、東京會舘時代の本多春吉氏です。更に、後から東京會舘へ一時的に戻られた本多氏の先輩、浜田昌吾氏と浅倉進次郎氏の2人からも指導を受け、山崎氏はこの3人を師と仰いでいました。そのいずれかの方から伝授された山崎氏のステアは、バースプーンの螺旋の摘みが上の方です(写真下)
會舘ステアが1960年代に登場したのだとすれば、その時代の在籍者から始まったと考えるのが自然かもしれません。
となると、昭和36年(1961年)に東京會舘の本館チーフバーテンダーに就任された高頭徳一親方である可能性が現実味を帯びてきます。
高頭 親方は、1947年(昭和22年)に東京會舘に入社。會舘ジン・フィズの提供が始まった1年後で、本多春吉 氏が親方の時代で、今井 清 氏、山崎 達郎 氏が先輩という柑橘です。
私の師である内山浩 氏は、東京會舘本舘メインバーに1968年まで在籍されていました。そして内山 氏の直属の後輩として1966年に入社された上田和男 氏もまた、會舘ステアは高頭親方が始めたものと見受けられていらっしゃいます。
1969年には、東京會舘(交通會舘銀座スカイラウンジ)でアルバイトをはじめる毛利隆雄 氏も在籍中に會舘ステアを習得されておられます。以前東京から八戸間の新幹線でご一緒にさせていただき、3時間程お話しさせていただいた中で、會舘ステアは「高頭の親父に教わった」と話されておりました。
写真下は、我が師の内山 浩 氏。
写真上は、1994年浜松町東京會舘 Bar 39時代の北條智之。
「會舘ステア」は本当に高頭徳一 親方から始まった名技法なのかもしれません。この技法名とスタイルを体系化し広めた人物であることは間違いないと思われます。
高橋徳一 親方にステアを教えた師は誰であったのか?
いつか解ったら続きを書きたいと思います。
千葉県南房総市の「谷柴農園」さんの枇杷が入荷しました。
今回は露路びわで、品種は「田中」です。
今シーズンの枇杷の入荷はこれが最後になるかと思います。
おすすめペアリングカクテル【STEPHEN'S / ステファンズ】です。
ニューヨークのウォールドルフ・アストリアで考案されたカクテルとも言われており、1935年のカクテル本「The Old Waldorf-Astoria Bar Book」にレシピが掲載されています。
通常のレシピはドライ・ヴェルモット、ドライ・シェリー、ベネディクティンDOMをそれぞれ同量で、シェークで作るショートカクテルです。
ネマニャ風にアレンジして、モスカテルワイン樽熟成のフェルディナンズ・レッド・ヴェルモット、ドライ・シェリー、ベネディクティンDOMをステアで作ります。
枇杷田中とご一緒にぜひ!
日本バーテンダー協会(JBA)主催のカクテル・コンペティションは何年から開催され、最初の優勝カクテルはどのようなレシピであったのかを調べてみました。
JBAは、1929年(昭和4年)5月1日に東京・神田パリスで発起人の荻野 直寿 氏、高橋 願次郎 氏、大阪 登章 氏、浜田 晶吾 氏、浅倉 進次郎 氏、鈴木 豊松 氏、 室井 光江 氏、本多 春吉 氏 斉藤 武雄 氏 高橋 徳兵衛 氏、玉田 芳太郎 氏、田村 八十八 氏、田村 清吉 氏、薄井 常雄 氏、伊藤 裕章 氏の15名と集まった40名で結成式が開催されました。
1931年から戦争がはじまり、満州事変から太平洋戦争(大東亜戦争)までの「十五年戦争」 で、自然消滅していた協会でしたが、1948年7月27日に再結成式が開催され、活動が再開します。
JBA主催の最初となるカクテル・コンペティションは、日本初のノンアルコール・カクテル大会でした。
1949年5月7日、戦後の酒類自由販売解禁の4日前となる 5月3日、東京・丸の内の日本工業倶楽部にて「全日本ソフトドリンク・コンクール」決勝が開催されます。
決勝審査員は料飲新聞関係から2名、料飲業者界からは壽屋やウィルキンソンタンサン社、コーヒー店より4名、有名人では東映監督や俳優の三船敏郎 氏、森 雅之 氏、アナウンサー、文士、漫談家から8名の合計14名で審査され、壹等1名、貮等1名、参等1名、佳作5名の入賞8作品が選出されました。
翌年の1950年の第2回は「オールジャパン・ドリンクス・コンクール」となり有名なカクテル「青い珊瑚礁」が誕生する。
全日本ソフトドリンク・コンクールの応募は2503作品にのぼり、1949年4月28日に第1予選会、5月1日に第2審査会が開催され決勝には8作品が選ばれました。
壹等(優勝)は、東京の杉田 幸一 選手が創作した【スノー・フジヤマ】でした。
●「スノー・フジヤマ」のレシピ
パイナップル・ジュース 90ml
フレッシュ・レモンジュース 1/3個分(15ml程)
砂糖 デザートスプーン 1杯(約3g)
上記をシェークして、氷を入れたソーダ・グラス(クリームソーダに使われる足付きグラス)に注ぎ、ホイップクリームを浮かべ、レッドチェリーを飾る。ストロー2本とロングスプーンを添える。
貮等は、須藤 勝 選手(東京) 作品名「サマー・デライト」
参等は、落合 謙二 選手(東京)作品名「ピース・バター」
佳作の5作品は「エバー・グリン」「オリエンタル・レモネード」「ストロベリー・シェーク」「シヤンクール」「バイオレット・スマイル」でした。
2026年5月31日(日)、ダイニングダーツバーBee 池袋店にて新人フレア・バーテンダー全国大会予選と世界大会日本代表選考会を兼ねたフレア大会が開催され、今回は審査員としてお手伝いさせていただきました。
入賞結果は以下となりたした。
●【anfa FRESH FLAIR 2026 Qualifying Round -SPRING】
優勝:anfa西日本エリア九州地区(佐賀)popo 選手
2位:池袋カラソル (東京)Cha Cha選手
3位:トレンド&バーセントネラ(愛知) Bruno選手
●【ROAD to BALI 2026 Bali World Flair Championship 2026日本代表選考会】
優勝:池袋カラソル(東京)ZIMA 選手
2位:ホテル風の山 (長野)Kekke 選手
ベストカクテル賞
池袋カラソル(東京)ZIMA 選手
出場された選手の皆様、審査員の皆様、大会運営スタッフの皆様、大変お疲れ様でした。
入賞された選手の皆様、おめでとうございました。
ご来場いただいた皆様、協賛メーカーの各社様、本当に有難うございました!
また「anfaジャッジ・セミナー」に参加いただいた皆様もありがとうございました!
本日は、かつて日本でもとても流行していたカクテル【クラウディ・スカイ・リッキー】のお話し。
このカクテルは日本でとても人気で、海外であまり見かけず、今までこのカクテルに関する文献が無かったため、日本で作られたカクテルではないだろうか?とも考えられてきました。
たまに気にして調べておりましたが、ベルギー出身のバーテンダーであるRobert Vermeire氏が1922年にロンドンで出版したカクテル本「Cocktails: How to Mix Them」でレシピを確認することができました。
このカクテルが1922年にアメリカ・フィラデルフィアで流行しており、スロージン・リッキーのアレンジであることが記載されています。
リッキーのバリエーションであることは間違いないのですが、カクテル名は「Cloudy Sky」と呼ぶことが多かったようです。
日本では現在、スロージン、ライム・ジュース、グレナデン、ソーダで作られることが多くなりましたが、本来はソーダの代わりにジンジャーエールにしたもののようです。
私も90年代によく提供させていただいたカクテルで、ジンジャーエールで作るものと認識しております。かつての著書「フレアバーテンダーズ・バイブ」にもジンジャーエールを使用したレシピで紹介している。
改めて古い日本のカクテル本で、レシピも確認してみました。むしろソーダを使用する例があるのか?
古くはジンジャー・エールで作ることが多いようです。
【本日のお手伝いさん】
本日は将来BAR開業を目指す佐野氏がシフト入りしています!
彼は家内公認の珍しい 北條智之ファンでもあります^ ^
皆様、温かい目でお手柔らかにお願いいたします^ ^
ご来店お待ちしております!
熊本県の高級ブランドメロン「肥後グリーン」が入荷しております。
糖度が高く、皮のギリギリまでジューシーな翡翠色のメロンです。
●おすすめカクテルは【肥後グリーンのメネフネ・ジュース】です。
メネフネジュースは、1970年代初頭にトレーダー・ヴィックスが開発したマイタイのバリエーションで,ベースをホワイト・ラムに変更したものです。
メネフネは、ハワイの伝説上の小人族で、力持ちで手先が器用、そして働き者。カウアイ島がメネフネ伝説の本拠地として知られ、ハワイ諸島各地に彼らが作ったとされる史跡が残っているといわれます。
トレーダー・ヴィックスのメネフネ・ジュースは以下で紹介されています。
MENEHUNE JUICE
1 lime
½ ounce orange curaçao
¼ ounce rock candy syrup
¼ ounce orgeat syrup
2 ounces Trader Vic light Puerto Rican rum
Squeeze lime juice over shaved ice in a mai tai (double old fashioned) glass; save one shell. Add remaining ingredients and enough shaved ice to fill glass. Hand shake. Decorate with one spent lime shell, fresh mint, and a menehune.
紹介の「肥後グリーンのメネフネ・ジュース」は,ホワイト・ラム、肥後グリーン、グランマニエ、アーモンド・シロップ、ライム・ジュースで作ります。
是非お試しくださいませ!
タキシード・カクテルの名前の由来は、アメリカ・ニューヨーク州の高級別荘地タキシード・パーク近郊にある会員制クラブ兼邸宅の「タキシード・クラブ」に由来しています。
クラブは1886年5月30日にオープンし、タキシード・カクテルは、1886年10月に開催された秋の舞踏会で初めて流行したフォーマルなイブニングウェア「タキシード」を引き立てるものとして提供されたのではと考えられています。
またタキシード・パークは、タキシード・ジャケットの発祥の地でもあります。
タキシード・クラブは、アメリカでいち早くテニスコートを取り入れたことでも知られ、1899年12月30日にテニスコートが開場されました。
現在も現存するクラブで、クラブ内のダイニング施設として、メインクラブハウスにはダイニングルーム、バー、テラス、プールサイドバー&グリル。ゴルフクラブハウには、ダイニングルーム、バー、テラスがあるそうです。
タキシード・カクテルのレシピ。
1900年のカクテル本「Harry Johnson's Bartender's Manual」の掲載レシピ(写真下)
マティーニに、マラスキーノ、アブサンを加え、ガーニッシュにチェリー、レモンピールを絞って仕上げると言うもの。
1903年の「Daly’s Bartenders’ Encyclopedia」のタキシード・カクテルのレシピ(写真下)
アブサンが加えられていないバージョンです。
1914年のカクテル本「Drinks by Jacques Straub」にはシェリーが加えられたレシピも登場。
1930年のサボイ・カクテル・ブックには、2種のレシピが掲載。