2026/07/20

日本のバー誕生の地 横濱の話㉒ 日本のバー文化の黎明期を支えた名バーテンダー「高橋顧次郎」 氏の話し

本日は、日本のバー文化の黎明期を支えた、戦前を代表する伝説的な名バーテンダー高橋顧次郎 氏のお話し。

高橋顧次郎(たかはし こじろう)氏。

日本バーテンダー 協会(JBA)の二代目会長で、横浜グランドホテルで唯一ルイス・エッピンガー氏と働いていたことがある日本人バーテンダーです。

横浜グランドホテルで修行し、バーテンダーとして頭角をあらわす。

横浜グランドホテルの支配人のルイス・エッピンガー氏と一緒に働いていたと言う高橋 氏。

ルイス氏は、1905年に横浜グランドホテルの支配人から退き、その後はマネージング・ディレクターとして務めますが、1907年6月14日、ルイス氏は77歳で他界します。

高橋 氏がいつから横浜グランドホテルに入社したかは、正確に解っていないのですが、1905年より前ではないかと思われます。ここではセカンド・バーテンダーを務めていました。



1912年(大正元年)には、名バーテンダーとなる浜田晶吾 氏が横浜グランドホテルに入社するので、高橋 氏は浜田 氏の大先輩になります。

横浜で有名なカクテル「ミリオンダラー」は、かつてシャンパンを使用したレシピであったようですが、1915年頃に高橋 氏と浜田 氏で、一般的に広めるものにしようとシャンパンを除外した処方にしたと言われています。 

高橋 氏は、1923年9月1日の関東大震災まで、横浜グランドホテルにいたと思われます。

戦前には銀座のレッドテープに移ります。

1929年(昭和4年)5月1日、東京・神田パリスにて日本バーテンダー 協会(JBA)の結成式が行われ、高橋 氏は発起人の1人となります。

JBA発起人15人は、荻野 直寿 氏、高橋 願次郎 氏、大阪 登章 氏、玉田 芳太郎 氏、田村 八十八 氏、浜田 晶吾 氏、浅倉 進次郎 氏、鈴木 豊松 氏、 室井 光江 氏、本多 春吉 氏    斉藤 武雄 氏    高橋 徳兵衛 氏、田村 清吉 氏、薄井 常雄 氏、伊藤 裕章 氏。

JBAの委員長(初代会長)には荻野 直寿 氏、副委員長に高橋 氏が選ばれ、JBA事務局が銀座に設置されました。

後に二代目会長には高橋  氏が選ばれます。

2026/07/13

日田天領西瓜のピンキー・ゴンザレス

 おすすめカクテル【日田天領西瓜のピンキー・ゴンザレス】

日田天領西瓜は、大分県日田自慢のブランド西瓜で、平均糖度が12度以上というコクのある甘味とシャリッとした食感が特徴です。

ピンキー・ゴンザレスは、1964年にVictor Bergeron氏が自身のレストラン「Señor Pico」のために考案したティキ・カクテルです。





今回、日田のブランド西瓜を取り入れたアレンジで提供しています。

テキーラ、日田天領西瓜、グランマニエ、アーモンド・シロップ、ライム・ジュースで作ります。

是非お試しくださいませ!

2026/07/11

第6回 オールジャパン・ドリンクス・コンクール優勝作品「フラワー・サントリー」

本日は、1954年11月18日、キャバレー・アスター・ハウスにて開催されたJBA主催の第6回 オールジャパン・ドリンクス・コンクールのコクテール部門1位の作品【Flower Suntory / フラワー・サントリー】の紹介です。


フラワー・サントリーの創作者は大槻 考行 氏です。 

レシピは、ドライジン1/2、デリカワイン・ホワイト1/4、スイート・ヴェルモット1/4、オレンジ・キュラソー2ダッシュをステアしてカクテル・グラスに注ぐ。レッド・チェリーを飾ります。




サントリーや幾つかのカクテル本では、デリカワイン・ホワイトの部分をドライ・ヴェルモットのレシピで紹介している。



2026/07/09

PATTAYA MIXOLOGIST BARTENDER & FLAIR OPEN 2026結果発表!

 2026年7月6日・7日 アジア・バーテンダーズ協会(ABA)公式ワールド・オープン戦【PATTAYA MIXOLOGIST BARTENDER & FLAIR OPEN 2026】がタイ・パタヤのCentral Marina Outletにて開催されました!

大会へ出場した皆様、審査員の皆様、大会を運営されたABAタイランドの皆様、本当にお疲れ様でした!

各国からトップバーテンダーが集まる素晴らしい舞台となりました。

日本代表としてフレア部門に  宮澤圭介(Kekke)選手が出場致しました。

審査員として日本からは、(社)全日本フレア・バーテンダー ズ協会 江田会長 と私も参加させていただきました。












【ミクソロジー部門 結果】

優勝:Eddie Mar Vilarde 選手(フィリピン)

準優勝:Thanyaphat Pornsuwan  選手(タイ)

第3位:James Jarin  選手(タイ)










【フレア部門 結果】

優勝:Deniss Trifanovs 選手(ラトビア)

準優勝:Michael Moreni 選手(イタリア)

第3位:Jung Gil Kim (Kei)  選手(韓国)

第4位:Kantapon prayote 選手(タイ)

第5位:James Jarin  選手(タイ)

ベスト・フィメール:Min Young Park (Chanel)選手(韓国)









日本代表の宮澤圭介(Kekke)選手は、世界の強豪が出場したフレア部門で 第6位 となりました!

今大会での貴重な経験や学びを、これからのフレア・バーテンダーへ繋ぎ、来年はもっと多くの選手が挑戦してくれることを期待したいですね。本当にお疲れ様でした!








最後に、パタヤの皆様の温かいホスピタリティと、ABAの仲間たちとの絆のおかげで、より一層素晴らしい大会となりました。

また今大会でABAアドバイザーとしてのCERTIFICATE OF APPOINTMENTも頂戴いたしました。ラビット会長、ありがとうございました!







大変お世話になったオーガナイザーのPOMさん、パタヤの皆様、ご一緒させていただいたABAグローバルの皆様、本当にありがとうございました! 


2026/06/27

2026年6月27日のスーパー・ヘルプさん

 【本日のお手伝いさん】

本日はキャリアも8年程あるバーテンダー がシフト入りしています!

彼は7年も前からネマニャで働きたいと言ってくれている人で、本日念願の叶ってスーパー・ヘルプで来てもらってます^ ^



ご存知のお客様も多いのではないでしょうか?

ダブル台風の影響で雨風が強い本日でしたが、もう通過したでしょうか?

今夜は、くれぐれもお気をつけてお過ごしください。

2026/06/23

戦前の著名なバーテンダー「大阪 登章」氏の話し

戦前の著名なバーテンダー大阪 登章  氏のお話し。

大阪 登章(おおさか たかあき)氏。

1889年生まれ。



1905年 (明治38年)に16歳で東京オリエンタルホテルに入社。

その後、神戸市北野町のトア・ホテル(東亜ホテル)に勤める。

写真下は、トア・ホテル(Tor Hotel)です。



1919年に帝国ホテルのバーテンダーとなる。

またこの年の12月28日、帝国ホテルは1回目の火災がおきます。初代帝国ホテル新館客室の電気回路がショートして、火災が発生し焼失。5ヶ月程で別館が再建されます。

1922年4月16日、帝国ホテルの初代本館は、地下室からの出火による火災で全焼となる。2回目の消失。

帝国ホテルは、被害を免れた一部の施設を利用して営業を再開します。

1922年11月、帝国ホテルのチーフ・バーテンダー であった玉田芳太郎氏が東京會舘に移ることになり、大阪 氏が後のチーフとなる。1926年には本多春吉氏が、帝国ホテルに移り、大阪 氏のセカンドのアシスタント・チーフ・バーテンダーとなる。

1923年7月に帝国ホテル2代目本館・通称ライト館完成。完成を記念した9月1日の落成披露宴の当日に関東大震災が発生。ライト館は倒壊を免れ、その後の火事でも無事で被害は少なかったと言われます。

帝国ホテルのシグネチャー・カクテルとして長く親しまれている「マウント・フジ」は、2代目本館が完成後に考案されたと推測されます。

世界一周旅行のクルーズ船で欧米の一行が来日した際に帝国ホテルで行われた祝賀パーティーのウェルカムカクテルとして考案されたと言われます。

ウェルカム・カクテルは当時、帝国ホテルの常務であった山口 正造 氏がチーフバーテンダーの大阪 氏に依頼して創作されたと考えられています。

山口 正造 氏は、富士屋ホテルの専務取締役でしたが、失火直後の1922年6月から帝国ホテルの支配人として一時的に着任し、1925年まで常務として務められた方です。

大阪 氏は、帝国ホテルを辞めた後は、築地の三州屋、丸ビルの東洋軒、華族会館、戦前日本軍が接収していたマニラ・ホテルでもチーフを歴任する。

1920年代後半には、横浜市中区伊勢佐木町二丁目の横濱バー・パリジヤンに所蔵していたことが解っている。



1929年には、大阪 登章 氏著のカクテル本も出版される。

この本に「マウント・フジ」のレシピ掲載は無いですが、「ミリオンダラー」と「ヨコハマ」が掲載されており、1920年代には日本にはあったことも確認ができる。

また1929年は、日本バーテンダー協会(J.B.A)誕生し、発起人15名の1人として名を連ねます。

戦後1940年代後半には歌舞伎座でバーテンダーをしていたようです。



写真上には5階と書いてありますが、昔から3階にはバーがあるようですが、5階にもあったのだろうか?


2026/06/22

やまがた紅王のフローズン・ピスコ・サワー

やまがた紅王(べにおう)」が入荷しました。

「佐藤錦」「紅秀峰」に続く山形のさくらんぼとして期待されているとのこと。

甘さと酸味のバランスが素晴らしく、とても美味しいです。

おすすめカクテルは【やまがた紅王のフローズン・ピスコ・サワー】です。旬の美味しさを是非お試しください。



レシピはピスコ、やまがた紅王、自家製大島桜リキュール、レモン・ジュース、シュガー・シロップです。

さくらんぼも添えてご提供します。

旬の美味しさを是非お試しください

2026/06/21

東京會舘初代チーフバーテンダー 玉田芳太郎 氏のお話し

本日は日本のホテルバーおよび洋酒文化を黎明期から支えた伝説の名バーテンダーの玉田芳本太郎 氏の紹介です。玉田芳太郎(たまだ よしたろう)氏。

1910年代には帝国ホテルでバーテンダーを務める。

 1919年12月28日、帝国ホテルは1回目の火災がおきます。初代帝国ホテル新館客室の電気回路がショートして、火災が発生し焼失。

5ヶ月程で別館が再建され、1920年に別館バーのチーフに玉田芳太郎 氏が就任。

1922年11月に竣工した東京會舘に移り、東京會舘の初代チーフバーテンダーとなり、アシスタント・チーフ・バーテンダー は、浜田晶吾 氏となった。

帝国ホテルでの玉田 氏のポジションは、大阪登章 氏が引き続きます。

1923年9月1日、関東大震災。

東京會舘本館は、消失や崩壊は免れましたが休館を余儀なくされました。

その後、玉田 氏は精養軒に入社。

1925年(大正14年)7月20日、日本バーテンダー協会(JBA)が結せされる4年ほど前に、全日本バーテンダー ・クラブが結成されます。

発足記念の式典は、クラブの本拠地となる東京・神田の花房にて30人程が集まり行われました。

そのバーテンダー ・クラブの顧問的な役割で長老バーテンダーとして、玉田 氏と東洋軒の田村八十八 氏が名前を連ねます。




カフェー・ライオンの浜田晶吾 氏、郵船バーテンダー の田中明治郎 氏、中央亭の臼井 氏、タイガーの久保金藏 氏、花房の山田秀吉 氏、三州屋の藤生和邦 氏らが出席。このバーテンダー・クラブの機関紙発刊の計画が立ち上がりましたが、山田秀吉 氏の使い込みにより話しが流れてしまう。

1929年(昭和4年)5月1日、東京・神田パリスにて日本バーテンダー 協会(JBA)の結成式が行われ、玉田 氏は発起人の1人となります。

結成式には、発起人の荻野 直寿 氏、高橋 願次郎 氏、大阪 登章 氏、玉田 芳太郎 氏、田村 八十八 氏、浜田 晶吾 氏、浅倉 進次郎 氏、鈴木 豊松 氏、 室井 光江 氏、本多 春吉 氏    斉藤 武雄 氏    高橋 徳兵衛 氏、田村 清吉 氏、薄井 常雄 氏、伊藤 裕章 氏の15名と集まった40名が式に参加致しました。

戦前は、丸の内ステーションホテルに移る。

2026/06/20

日本最高齢のバーテンダーで生涯現役を貫かれた「山崎 達郎」氏のお話し。

本日は、北海道札幌市すすきのに「BARやまざき」を開業し、同市にオーセンティックバーが広まる基礎を築いたバーテンダー山崎 達郎(やまざき たつろう)氏のお話し。

「日本最高齢のバーテンダー」で「北海道バーテンダーの草分け」とも称され伝説の方です。



1920年6月28日。東京府東京市小石川区(現・東京都文京区)に生まれる。

幼少期は絵を描くことを好まれ、画家を志望していたと言われます。ご両親を亡くされたことを機に1937年頃から染物業をされます。

第二次世界大戦が始まると衛生兵として応召され陸軍病院へ配属。軍医学校での勤務中に終戦を迎えた。

1945年12月、軍隊時代の友人の紹介により、GHQに接収されていた東京會舘に勤務を始めます。

最初は雑役でしたが、開業準備中の煤だらけの宴会場の清掃や食器磨きなどからはじまり、翌年から営業再開となり、大きな宴会があるとバーテンダーが足りなくなったことから、臨時で宴会バーの応援に駆り出されるようになります。雑役から半年経過した頃に酒場のお館(チーフ・バーテンダー)であった本多春吉 氏からの誘いを受けて酒場担当となり、バーテンダーとしてのキャリアが本格的にスタートします。

東京會舘時代のはじめの師は、本多春吉 氏で、後から東京會舘に一時的に戻る本多氏の先輩になる浜田昌吾 氏、帝国ホテルからの浅倉進次郎 氏の2人からも指導していただき、3人を師事されたといいます。直属の先輩に今井清 氏という環境であったようです。修行時代、オープン前のバーの掃除では、浅倉 進次郎 氏からは年中叱られていたととも話しています。

東京會舘から出向となった、連合国軍将校クラブであった綱町三井倶楽部でも働き、来日したヘレン・ケラーを目撃したとのこと。ある日の晩に、アメリカの軍曹と喧嘩したといいます。ウェートレスとして接客したお嬢さんを酔った軍曹が誘惑しそうなので、あまり近寄らないようにと忠告したところ、山崎 氏を突き飛ばして喧嘩騒動になったとか。それが原因で、人員整理のときにクビになってしまったそうです。

その後は、太平洋保全司令部将校クラブを経て、横浜の「グルメ・グリル・エバー・アンドレー」でチーフも務めました。

1953年、東京會舘のチーフバーテンダーだった本多 氏から札幌行きを打診され、1年の予定であった札幌移住でしたが、「舶来居酒屋モンタナ」にチーフバーテンダーとしてしばらく勤務することになります。

1955年11月、全日本バーテンダー協会(ANBA)創立。会長には室井良介 氏、顧問に本多春吉 氏が就任。本多 氏から北海道に支部を作って欲しいと言われ、北海道にバー文化の基盤を築く。

1957年に財界の常連客から独立の話を持ちかけられたものの、その人物に資金をだまし取られる詐欺被害に遭う。しかし、見舞金を寄せたり、資金代わりに山崎氏の絵を購入したり、他の常連客様からの支援に恵まれ、1958年に「BARやまざき」を開店。

山崎 氏が創作されたゆうめなカクテルに「サッポロ」があります。

1972年札幌オリンピック開催に合わせて考案したカクテルで、1981年ジュネーブで行われた国際カクテルコンクールで特別賞を受賞した作品でもあります。

レシピは

ウォッカ20ml

アマレット20ml

シャルトリューズ・ヴェール10ml

ドライ・ヴェルモット10ml

ステアしてカクテルグラスに注ぎ、ミントチェリーをグラスに沈めるというもの。

1975年の火災で一度は店舗を焼失しましたが、翌1976年にはオーセンティックバーとして現在の克美ビルに店を再建されます。

1987年、日本バーテンダー協会北海道地区名誉会長に就任。

1993年には勲六等単光旭日章を受章。

90歳を過ぎても店に立ち続けたが、晩年は体調を考慮して1時間ほど顔を出すに留められていました。

2015年秋頃から体調を崩され、2016年8月からは自宅療養となりましたが、同年11月4日他界となってしまいました。

山崎 達郎 氏は、現役を貫いた生涯でございました。

2026/06/15

今週はクチナシが咲きました!

 今週はネマニャの小庭で育てているクチナシが綺麗に咲きました^ ^

今年も【スコーピオン】をご提供させていただいております。





1930年代後半にカリフォルニア州オークランドにあるTrader Vic'sのVictor Bergeron氏が考案したカクテルです。

ネマニャではラルースのスタイルでご提供します。

レシピはホワイトラム、コニャック、オレンジジュース、レモンジュース、オルジェ シロップ。クチナシの花を添えています。

クチナシの甘い香りとカクテルのサッパリとした口当たりに、初夏の到来を感じる一杯。数量限定です。

是非お試しくださいませ!


2026/06/12

ローズポート・スリング

6月に入り薔薇が咲き誇る季節となりました^ ^

今年も農薬不使用栽培のアサオカローズ様の食用薔薇「オーバーナイトセンセーション 」が届きました!

当店のローアルコール・カクテル1番人気となっている【Rose Port Sling / ローズポート・スリング】




薔薇と港の街"横浜"をイメージしたカクテルで、低アルコール版のシンガポール・スリングのようなカクテルとなっています。

ノンアルコールジンNEMA0.00%スタンダード、ヒーリング・チェリー・リキュール、パイナップル・ジュース、レモン・ジュース、グレナデン・シロップで作り、オーバーナイトセンセーションとミントの葉を飾ります。

是非お試しくださいませ!

2026/06/10

ミスター・マティーニ今井清 氏の話し

本日は伝説のバーテンダー、ミスター・マティーニこと今井 清(いまい きよし)氏のお話し。

1923年4月28日、石川県羽咋市生まれ。



今井 氏の叔母が横浜鶴見に暮らしており、隣の家に東京會舘のチーフバーテンダーを務めていた本多春吉 氏が住んでいました。

1939年、富山出身の本多 氏の弟子が戦争で応召されたため、本多氏は次も北陸の人間を育てたいと考えます。そこで同郷の今井 氏の叔母に相談。声をかけられた今井 氏は石川から上京し、東京に到着した翌日、買ったたばかりの靴を履き、本多 氏に連れられ帝国ホテルが委託経営していた東京會舘に向かいます。人事課の面接を受けましたが、本多 氏の紹介ということで形式で済み、酒場係として入社が決定しました。以来、本多氏に師事し、バーテンダーとしての道を歩むことになります。

写真下は、状況当時の今井 氏。



まず言葉の訓練から始まり、返答に田舎弁が混ざると何度も聞き返され、正確な言葉になるまで繰り返されたそうです。

今井 氏は、その時のことを「入社当初から言葉のハンデに苦しめられた。これも東京會舘という日本を代表する社交場に働く者として不可欠のことであったが、私にとって毎日が針のむしろであった」とインタビューで語られている。

帝国ホテル、東宝株式会社に勤務、1942年に国民徴用により日本製鋼横浜製作所・横銃製造所に勤めることになり、 1944年10月には召集令状が届き、厳しい状況下で兵役を努め終戦を迎え、1945年12月に東京會舘にもどります。

東京會館は、GHQに接収され、名称をアメリカン・クラブに変更する。會舘の近くにはGHQ総司令部が設置された第一生命ビルがあり、そこに勤務するアメリカ軍将校達相手に新たなバーテンダー修行が始まったといいます。

当時のアメリカン・クラブには、1階にメイン・バーとラウンジ・バー、3階にメイン・ダイニング、4階にはボール・ルームがあり毎晩ディナーとダンスが開かれていました。

バーテンダーは当時のチーフ・バーテンダーである本多春吉 氏以外には、今井清 氏、12月から見習いとして入社となった山崎 達郎 氏のみで、他は急遽集められたスタッフのみであったそうです。

心細かったスタッフもその後、浜田昌吾 氏、浅倉進次郎 氏、秋田清六 氏、田村清吉 氏といったメンバーが集まり、日本のバーテンダー史に名を刻んだ人物達と一緒に働く。

ミスター・マティーニと呼ばれる様になったのは、いつからなのか?



今井 氏のマティーニ伝説は、東京會舘時代からのようです。

東京會舘のお客様であった保険会社社長が、ロンドンから、当時の東京會舘の社長宛に届いた手紙には「アメリカにも行き、ヨーロッパを巡るが、いまだ今井君に勝るドライマティーニに出会っていない。ということは今井君のマティーニは世界一ではなかろうか」と書かれていたという。

 1961年からは、パレスホテル東京に移り、ロイヤルバーの初代チーフバーテンダーとなる。



パレスに移られてからの今井 氏のマティーニのレシピは、ゴードン・ジン55ml、ドライ・ヴェルモット15ml、オレンジ・ビターズ1dashをステアしてカクテルグラスに注ぎ、レモンピール、オリーブを飾るというもの。

晩年は、ドライ・ジンとドライ・ヴェルモットの割合は8対1であったようです。


1963年の調理師法施行10周年記念カクテル・コンクールにて「ライジング・サン」で厚生大臣賞を受賞。

レシピは、テキーラ30ml、シャルトリューズ・ジョーヌ20ml、コーディアル・ライム10mlをシェークして、ソルト・リムしたカクテル・グラスに注ぎ、スロージンを1tspドロップし、レッドチェリーを沈める。

1971年には、東京で開催された第12回IBAインターナショナル・カクテル・コンペティションにて「Hermes / ヘルメス」で準優勝。

レシピはテキーラ30ml、クレームドウメ20ml、ライムジュース10ml、アニゼット 1tspをシェークしてカクテル・グラスに注ぐ。

一般社団法人 日本ホテルバーメンズ協会(HBA)の前身であるホテルバーメンズクラブ(HBC) 初代専務理事に就任。

1984年にバーテンダーを引退。

私は今井 清 様のカクテル作成のお姿は遠くから拝見したことがあります。ステアは會舘ステアの源家のようなスタイルで、バースプーンの持ち手は、螺旋中央の少し上で、小指は外に出しておりますが、摘みから上のスプーンの回転が小さめの弧の描き方と記憶しています。シェークは、今で言うインフィニティ・シェークに近い動きでリズミカルに左から右へ横に流すような独特なシェーキングだったのを覚えいます。

また私がホテル・グランドパレスに勤務していた時代に、今井清 様に2度カクテルを作成し提供したことがあります。

今井 様は、月に1度ホテル・グランドパレスの一階にあった理髪店で髪を切り、メインバー・ロイヤルバーでモクテルの様なものを楽しまれていました。

今井 様は、ミスター・マティーニのイメージがあり、酒に強い方であると思っておりましたが、実は酒に弱い方でした。98年春のある日、今井 様が髪を切られた後にロイヤル・バーにお越しくださいました。ご来店時にマネージャーやキャプテン、先輩が食事に行かれたタイミングで、現場にバーテンダーは私しかおらず、社員食堂に連絡するも誰も捕まらず、私の勝手な判断で、僭越ながら今井 様のオーダーを伺い作らせていただきました。注文は「フレッシュ・オレンジ・シェーク」でした。

このチャンスにアピールをしようと気合いを入れ過ぎたハードシェークで仕上げて提供したことを覚えております。お帰りになられた後に、マネージャーが「どうして勝手な判断をした!」と怒られたことを覚えております。

二度と今井 様へのカクテルを提供することは叶わないと思っていたのですが、二度目のチャンスが訪れました。

レストランに女性二名と今井 様の三名でご来店され、食後に急遽カクテルを楽しまれるとのことでした。そのカクテルは、スタッフが全員解らず、カクテルに詳しいアイツならと、マネージャーが「北條、ガリアーノ・ホット・ショットって解る?」と聞かれ作ることに!

私が用意したガリアーノ・ホット・ショットはマネージャーが運び提供となりました。

75歳になられても、流行ものに対してアンテナを常にはられて新しいものをご存知で、カクテルに対する愛情が深い方なのだと感動したことを覚えています。

その半年後くらいの1999年1月28日に今井 様は他界となりました。