本日は横浜出身の伝説のバーテンダー浜田晶吾(昌吾) 氏のお話です。名前はここでは浜田晶吾 様で以下統一いたします。
1891年横浜生まれ。
若かりし頃は、日本アルプスの名付親として有名な英国人の牧師、ウォルター・ウェストン氏の教会で2年程助手として働く。
1912年(大正元年)、酒が全く飲めなかっとそうなのですが、21歳の時に横浜グランドホテルに入社しバーに配属。当時のバーの支配人はマンワリン氏(1905年より支配人として就任)。
1年後に上海で流行していたカクテル「ミリオンダラー 」がグランドホテルのバーでも提供が始まる。後にミリオンダラーが導入さるたこともインタビューでも語られる。
浜田 氏が見習いからバーテンダーに昇格した1915年には、外国人バーテンダー の助手をしていたそうです。
1922年11月1日、財閥の出資により上流階級の社交場となる「東京會舘」が建てられ、浜田 氏がセカンド・チーフ・バーテンダーとして、チーフ・バーテンダーには玉田芳太郎 氏が招かれた。
その年の11月中旬に行われた結婚披露宴で「ミリオンダラー 」が縁起の良いカクテルとして採用され、浜田 氏の手によって提供される。1923年にはミリオンダラー を本格的にサーブしはじめたといいます。当時はヴェルモットが入らないもので、現在も東京會舘でサーブされるミリオンダラー にはヴェルモットが入らずレモンジュースが加えられている。
1923年9月、関東大震災。
東京會舘本館は、消失や崩壊は免れましたが休館を余儀なくされました。
1923年12月、浜田 氏はホテル精養軒が経営する1911年8月創業の名店「カフェーライオン」に迎えられる。
カフェーライオンは、気軽に入れる雰囲気で、有名な俳優、小説家、画家をはじめ様々な方が集まり毎晩賑わいをみせる酒場だったといいます。
当時常連であった文藝春秋の当主 菊池寛 氏が「酒ならばコクテール、コクテールならミリオンダラー、雑誌ならば、わが文藝春秋」というキャッチコピーを読売新聞に掲載しており、当時のミリオンダラー の人気が窺える。
1929年、日本バーテンダー協会(JBA)設立。発起人15人の1人。
1931年は、寿屋カクテル コンテストにて「サンデー・コクテール」で入選。
サントリー・ウィスキー白札 2/3
ドライシェリー 1/3
カシスリキュール 1tsp
ステアして、カクテルグラスに注いだもの。
1933年(昭和8年)には、銀座8丁目に自身が経営する「ニュー・ライオン」をオープンしますが、6年ほどで閉店。
その後、様々なバーテンダー でチーフを務める。
1947年(昭和22年)、東京會舘に再び戻り、チーフ・バーテンダーを務め、今井清 氏や山崎達郎 氏を指導する。
1951年、東京温泉のチーフ・バーテンダーを務める。写真下左は、東京温泉時代の浜田 氏。
1952年、日本バーテンダー協会(JBA)会長に就任。
1952年、初代となるミスターバーテンダー受賞。
写真下は、受賞当時のもの。
1960年に東京バーテンダースクールの主席講師として招かれ、1961年には校長に就任。 辞職するまで校長を務める。
70代には日本バーテンダー協会顧問。
写真上は1970年、79歳の浜田晶吾 氏。
過去のインタビューで、大正時代はあまり洋酒は飲まれていなかったのですか?に対するお答え。
「ええ、飲みませんでした。古くから日本でもカクテルは作っていたんですが、それは、昔の横浜居留地時代ですね。あの一用には外人経営のいろいろな店がありましたし、各国のひとが雑居していて、日本の政府から、向こう10年とか20年とかいう契約で借りていた。それが横浜にたくさんあったんですね。その中は日本の法律は適用されない、治外法権なんです。各総領事館が保安維持をしました。大正時代にも、その雰囲気は残っていましたね。ですからわたくしは、その居留地のあとの外人経営のホテルへ入ったんです。フランス系のホテルもあり、アメリカ系のホテルもある。そこへ行くと、外国へでも行ったような気分がしたものですよ。その当時、横浜あたりは文化の輸入口ですから、非常に開けていて、東京のほうが田舎臭かったですよ。」
1975年のインタビューでは、ミリオンダラー は浜田 氏がグランドホテル時代に創作し、ジェネラルマネージャーにテイスティングしてもらい非常によいと言われ、決まったとも語っていますが、上海から持ち込まれたレシピを改良して、今のレシピにしたのは浜田 氏だということなのかもしれないですね。
1981年、90歳で他界となりました。