2019/11/13

日本のバー誕生の地 横濱の話⑤ 氷の輸入と国産天然氷の販売

今回は氷をテーマに調べてみました。

氷が飲み物に使われたのは紀元前1750年。

西アジア最長の川であるユーフラテス川にアッカド人が貯氷庫を作り冬に山奥から大量の氷を集めて保存し、夏に飲み物に入れて飲んでいたと言われています。

ロシアでも大変古くから氷を飲み物に使用しており、真冬のネヴァ川で採取した氷を保管し、サンクトペテルブルクで使われていました。

日本では西暦375年の仁徳天皇62年に氷を貯蔵する氷室(ひむろ)が存在し、氷が仁徳天皇に献上され、酒の冷却に使われている。

ヨーロッパでは16世紀に上流階級の間で使われ、インドでは17世紀に飲み物を冷やすために使われました。

氷の貿易は、1806年にニューイングランドの実業家であるフレデリック・チューダー氏により始まります。
ニューイングランドの氷は、ボストンから各地に出荷された事から「ボストン氷」と呼ばれました。

またフロリダの医師ジョン・ゴリー氏は、1850年7月に自作の製氷機開発しパーティーてお披露目している。

横浜は開港直後にボストン氷が輸入され、1864年2月20日に新装オープンしたヨコハマ・ホテルのレストラン「a la very(ア・ラ・ヴェリー)」で使われた記録があります。

1865年5月4日、アメリカのリチャード・リズレー・カーライル氏が天津氷を横浜に入荷させる事に成功し売り出すと同時にアイスクリーム・サロン(現在の横浜中華街 天長門あたり)を開業させました。


1864年、国産の天然氷を横浜から販売しようと考えた日本人がおりました。
その方の名は "中川嘉兵衞"
1864年11月12日に氷業の許可を得ています。
この年に甲州鰍沢付近で氷を採氷し、輸送に時間を費やし、役所の検査、雨に濡れたりとして、翌年3月に横浜に到着した時は目減りが酷く、夏までもたず失敗。
1865年は武蔵国・府中付近で採氷しましたが暖冬でもたず失敗。
1866年は群馬県の赤城山と榛名山で採氷に失敗。
1867年は南部地方で採氷し、岩手県の釜石港から運んだものが大幅に遅れて、またまた失敗し4年連続で大損失となります。

1868年(明治元年)に、中川嘉兵衞 氏はジャーナリストの岸田吟香 氏らをはじめとする3名とともに氷会社【Yokohama Ice Co.(横浜氷会社)】を設立し、元町一丁目に新たな氷室
を完備した二階建の洋風の建物を建設しました。
また今まで行ってきた和船での輸送が原因で失敗を繰り返したためイギリスの帆船をチャーターする事にします。



1869年に函館で採氷にしますが、賊兵に差し止められ酒手をはずめと金銭を要求され、また採氷した氷は僅かとなり雪も交じり商品にならなくなってしまいます。
1870年、津軽で採氷しますが運搬船のチャーターの交渉が上手くいかず失敗。函館の豊川に氷室を建設し函館氷を600収納に成功。
1871年、横浜へ500トンの氷出荷に成功し、会社を東京にも進出。
1872年、函館氷は横浜へ1200トンと増やし、毎年2000から3500トンと増えて行きました。
横浜氷会社の氷は "函館氷" と呼ばれ安くて品質の良いものとして有名になった。

ボストン氷を輸入るす横浜外国人居留地42番のバージェス&バーディック商会(ボルベッキ)は、1869年に横浜氷会社の函館氷の輸送に失敗していた頃、この年にアメリカで創りだされた機械製氷を買い占めていた。

1870年にボストン氷を800トン入荷させ、函館収納に成功したばかりの横浜氷会社と値下げ競争をします。
1872年、お互い一歩も引かず氷の売値を半値に引き下りますが、この年にバージェス商会のバージェス氏37歳が病死し、中川嘉兵衞 氏の横浜氷会社が勝利します。
この年に横浜氷会社は、居留地17番地と158番地の二箇所に会社を設置。
1874年に社名は【アイス・カンパニー・オブ・ヨコハマ】となる。
1878年には社名は【ヨコハマ・アイス・カンパニー】と変える。
1879年に機械製氷をはじめます。

また日本のアイスクリームの父とされる氷水店【町田房造】は1869年に馬車道の常盤町5丁目に開業し日本人によるアイスクリームの製造販売が始まった。


1860年代からバーでは氷はが使われてきたようですが別料金で提供されていました。
1870年代になると氷が充実しカクテル・メイキングにも使われてきました。

また横浜開港資料館で調べ事したいです^ ^

次の⑥では、カクテルの副材料に使われていた炭酸飲料を調べたいと思います。