2019/11/30

日本のバー誕生の地 横濱の話⑥ 日本の清涼飲料水製造の歴史

今回はカクテルの副材料として使われる炭酸系清涼飲料水の日本でのこと始まりのお話。

清涼飲料水飲用のはじまりは古代ローマ時代に天然の鉱水や温泉などの炭酸水を健康推進のために病人が飲用したことからはじまっている。

紀元前に炭酸飲料をはじめて造ったのはクレオパトラだという伝説話もある。
ワインに真珠を入れて、真珠の主成分である炭酸カルシウムが酸に溶けて発泡性の飲み物を考案したといいます。

清涼飲料水が日本に持ち込まれたのは、1853年ペリー提督来航時に浦賀の役人に炭酸飲料のレモネードを飲ませたのが始まりかもしれません。

横浜にソーダウォーターが輸入された記録としては、1861年12月20日にO.E.Freemanが輸入したという英字新聞の広告からも確認が出来ました。

日本の炭酸飲料製造技術伝来の歴史には中国人からの影響を大きく受けています。

1864年3月26日、横浜居留地で清涼飲料水の製造がはじまる。


製造販売をしたのは、上海から進出して来たFarr  Brothers & Co.(ファー・ブラザー商会)で、上の英字新聞の広告に "トニック&ソーダウォーター製造所" とファー・ブラザー商会が出ている。
当時、横浜にイギリスの駐屯軍兵にはライムジュースが好まれていましたが、日本ではレモネードが普及していた事から、ファー・ブラザー商会は【ラムネ】の製造から始めました。
ラムネは直ぐに夏の風物詩となり早くも普及しました。
翌年、ファー・ブラザー商会は上海工場を閉鎖し、横浜工場に一本化して製造に力を注ぎます。

トニック・ウォーター、ソーダウォーター、レモネード、ジンジャービアの製造も始め、1865年6月24日の英字新聞でもそれが確認でき、後に中国と日本で最初のトニック・ウォーター製造業者としても知られました。


この頃から日本でもジントニックが飲まれていたかもしれません。

1865年にはジンジャービアの製造販売を始めた中国人の製造業者コック・アイが登場し、この年の7月22日の英字新聞の広告でも登場しており、ジンジャービアの他、ソーダ・ウォーター、レモネードの製造販売をしている事が印されている。


また同年12月2日、 Bourne & Co.は英字新聞にソーダ水製造機と中国人技術者の雇用のセットの売り出し広告を出している。

またこの年からレモンネードを "檸檬水" と呼び始めたのは、長崎の藤瀬半兵衛 氏と言われています。

1867年1月23日の英字新聞の広告では、ソーダウォーター、トニックウォーター、レモネード、ジンジャービアの製造を横浜中華街本村通りで開始したJ.MICHEL & Co.やソーダウォーター製造業者アッズの存在も明らかになっている。

"清涼飲料水製造の元祖" としているノース&レー商会は、1864年イギリス人の医師ウィリアム・ウィリス氏と英公使館付医師のジェンキンス氏が設立した横浜初の薬局「横浜ディスペンサリー」から始まっていますが、1884年からノース&レー商会として経営し清涼飲料水製造販売に更に力を入れたとされています。
横浜ディスペンサリー(ノース&レー商会)のレモネード製造は1868年から。


会社の起源となる横浜ディスペンサリー設立年とファー・ブラザー商会設立は同じ1864年ではありますが、ノース&レー商会が清涼飲料水製造元祖ではない可能性が高いのではと思われる。

日本では5月4日の "ラムネの日" がありますが、これは東京の実業家である千葉勝五郎 者がレモン水の製造販売許可を得た日が1872年5月4日という事から由来となってます。

日本人の炭酸飲料製造販売では1875年にイギリス人から清涼飲料水の製法を学んだ秋元巳之助 氏が1887年に常盤町でラムネ製造に専念し「金線印サイダー」を生み出します。

明治中期には相生町6丁目で、後藤紋三郎 氏もラムネの製造販売をしている。

1884年には天然鉱水の "平野水" が登場し、後に三ツ矢サイダーとなる。


今回、清涼飲料水製造の調べからはカクテル名は登場しませんでした。

次は1860年代に外国人が出入りしていた横浜の街酒場を調査致します!