本日は、私が住んでいる東京都港区
「三田」を紹介致します!
三田は、江戸時代に大名屋敷や御家人の屋敷が並んでいた場所です。
旧三田台町は、"月の岬"として知られ風光明媚な地として知られていました。
お寺が大変多い所で、現在は40以上ものお寺があります。
まずは、三田4丁目にある玉鳳寺にある
「化粧延命地蔵」です。
病を持つ体の部分に白粉を塗って祈願するお化粧地蔵尊です。
こちらは「幽霊坂」です。
江戸の頃からこの名で呼ばれている坂で、周辺に寺院が多く、昼でも幽霊が出そうなくらい暗い場所である事からこの名が付けられたとも言われています。
こちらは、幽霊坂上の三田台にある港区初の遺跡公園「三田台公園」です。
写真は公園内にある竪穴式住居での縄文人の家庭生活を再現したものです。
三田台公園内にある「伊皿子貝塚遺跡」です。
公園には、1978年の遺跡発掘調査で発見された住居後と貝層の断面が展示されています。
こちらは、「亀塚公園」です。
華頂宮邸の旧庭園敷地の一部の公園です。
公園の奥には「亀塚」があります。
円墳と認められた丘で、塚の形から亀塚と呼ばれています。
亀塚公園裏の階段を降りると
「御田八幡宮」があります。
709年創建の古社です。
私が小さい頃は、脇に水が流れ、蟹などが沢山いたので、夢中になり蟹を捕まえていた場所でもあります。
こちらは昔の三田台の景色の絵「月の岬」です。
三田台は、美しい月と海が眺められた風光明媚な地でした。
こちらは「子育延命地蔵尊」です。
三田3丁目にあり、クエート大使館がある聖坂を下ったところにあります。
こちらは私の地元のゆるキャラ魚らん坂の「ぎょらにゃん」です。
美容室の帰りに一度だけお会いしました。
こちらは、長松寺の駐車場内にある「荻生徂徠墓」です。
荻生徂徠は、5代将軍綱吉の侍医の次男で、日本橋茅場町に学術を開いた方で、復古の学説で古辞学派の祖となった人です。
こちらは、大信寺の
「石村近江墓」です。
三味線の始祖とされる方の墓で、京都から江戸に移動して三味線を完成させ"浄本近江"と呼ばれた名工であったそうです。
こちらは「魚籃寺」です。
商店街の名と坂の由来となる「魚籃観音」が祀られ、大漁祈願、海上安全、商売繁盛などを祈ります。
こちらは薬王寺の「加賀の千代女の朝顔の井戸」です。
江戸時代の女流俳人、加賀の千代女が歌に登場したという有名な井戸です。
こちらは「正山寺」です。
山門脇のお堂に烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)が祀られます。
こちらが「烏枢沙摩明王」です。
受胎祈願、安産祈願、厄除け祈願の本尊として信仰されます。
こちらは、私の母校「港区立御田小学校」です。
1873年に設立された小学校です。
こちらは、
「慶応義塾大学」です。
赤レンガ作りの歴史ある有名な大学です。
こちらは「三田春日神社」です。
958(天徳2)年、武蔵国の国司、藤原正房が大和国春日大社を勧請し荏原三田邑に祀ったのが創建と伝えられています。
こちらはJR田町駅付近にある「西郷南洲・勝海舟会見の地」です。
1868年3月14日に西郷隆盛と勝海舟が、この場所にあった田町の薩摩藩邸で会談をしたという地です。
こちらは「イタリア大使館」です。
イタリア大使館の敷地には「大石主税以下切腹跡」があります。
1929年にイタリア政府が土地の所有権を得ています。
こちらは「旧逓信省」です。
現在、かんぽ生命保険東京サービスセンターです。
こちらは大正建築史上貴重な建造物「綱町三井倶楽部」です。
100年以上の歴史ある建物で、三井家の迎賓館として建てられたものです。
戦後の昭和20年には、米軍将校クラブとして使用されていましたが、昭和28年に返還され、現在は三井グループ企業による会員制クラブです。
こちらは、慶応仲通り商店街内にある「水野監物邸跡」です。
赤穂浪士9名が1703年2月4日に切腹した屋敷で、現在は飲食店となっています。
意外と見所がある「三田」、散歩におすすめです!