来年2020年2月24日に日本にバーが誕生し160周年を迎えます。
横浜のバーの歴史を掘り下げ様と昔の資料をオークションで購入したり、横浜開港資料館の閲覧室に行き昔の資料を拝見させて頂き、知らなかった事が見えて来て大変勉強になっています。
強く興味があるうちに色々調べた情報をブログにも残して記録したいと思います。
まずは開港から日本初のバーのお話を少しまとめてみました。
1859年6月2日(新暦では7月1日)に横浜港が開港され日本最大級の貿易港となり、対外貿易の8割は横浜となります。
1859年日本初のホテルの説の話。
1892年刊行された横浜沿革誌によると横濱本町通りに1859年に"なまこ壁の平家ホテル"なるものが建築されたと書かれますが、1860年の町の全図から特定されない事からホテルの存在は確証がありませんが、もしかしたら1859年にホテルが存在していた可能性も僅かにあります。
1860年、横浜開港から半年ほどとなる1月1日。
横浜在住外国人は44名(アメリカ人15人、オランダ人10名、イギリス人10人、フランス人1人他8名)が確認。
長崎ではアーノルド商会が酒類の輸入開始。
2月24日、横浜の外国人居留地70番地(現在は横浜市中区山下町70番地 "かをり"の場所)にオランダ人でNASSAU号元船長のフフナーゲル氏が日本初のホテルといわれる「ヨコハマ・ホテル(通称フフナーゲル・ホテル)」が開業。
下は開業を知らせた広告。
当時、横浜は英語で"YOKUHAMA"と書かれヨコハマ・ホテルも「YOKUHAMA HOTEL」と表記。
ホテルの中には、日本初となるバーが出来ます。
小さなバーでビリヤード台もあったといいます。
下はヨコハマ・ホテルのバーでビリヤード(ケン玉と書かれています)を楽しむ絵(横浜開港見聞紙より)。
バーの利用者は、居留者、船員、旅行者で客人の愚痴などのはけ口となる場として利用される事も多かった事から口論や喧嘩は日常茶飯事でバー内でピストルの打ち合いもあったとされます。
またバーのドアの上にあった大きな掛け時計に弾丸の跡が沢山残されており、これはピストルの試し撃ちの標的にされていたという話です。
当時の様子から西部劇に登場するバーと変わらない様子が伺える。
ヨコハマ・ホテル開業から2日後には、ヨコハマ・ホテルを出て散歩に出かけたオランダ人船長2人が日本人に殺害されている。
3月1日、横浜居留地の地所の貸渡方法を各国領事に伝達。
この頃、外国代表は外国商人が横浜に住むことを認める。
外国人居留地に住む外国人は23人。
当時は安全な場所ではなく、外国人居留地に住む外国人の外出は護衛付も珍しくなかったという。
3月10日に中国の英字新聞ノースチャイナ・ヘラルド紙にヨコハマ・ホテルの広告が出る。
写真下は1862年のザ・ジャパン・パンチ。
yokohama hotelの文字が出てくる。
1863年10月27日、上海からマジシャンのWashington D. Simmons氏が来日しヨコハマ・ホテルで横浜初のマジックショーが行われましたが、それ以降はホテルが売りに出されて一時閉鎖となりました。
その後を少しまとめると以下です。
1860年2月24日に居留地70番地に開業したヨコハマ・ホテルは1863年に一時閉鎖。
1864年に新装オープン。
1866年に大火事で焼失します。
1869年に11月に居留地37番地にグリーン婦人がヨコハマ・ホテルを改め開業。
写真下は、1870年のグリーン婦人時代の広告。
居留地37番地を示すNo.37も記載される。
1873年1月に火災で失い閉鎖。
1874年6月に居留地108番地に37番地時代の最後の経営者アリス・ストランドバーク夫人が再びヨコハマ・ホテルを再建。
1877年4月に閉鎖し、公開オークションにかけられる。
1878年に初めにあった居留地70番にロプケ夫人がヨコハマ・ホテルを再び開業。
1880年に閉鎖。
1885年に居留地70番地にてウェールズ夫人がヨコハマ・ホテルを開業。
1887年にヨコハマ・ホテルを居留地52番地に移転。
1900年代にもヨコハマ・ホテルとして開業された記録もある。
●次回②ではヨコハマ・ホテルの日本初のバーテンダーの話です。