2025/10/29

10月29日にお陰様でカクテル バー・ネマニャは開店12周年を迎えます。

 平素はCocktail Bar Nemanjaをご愛顧いただき、誠にありがとうございます。 

10月25日から28日まで連休を頂戴し、ご不便をおかけいたしました。

本日10月29日(水)にお陰様でネマニャは開店12周年を迎えます。




これもひとえに皆様の日頃の温かいご支援のお陰と心より感謝致しております。


今後とも引き続き宜しくお願い致します。

2025/10/27

10月27日・28日は臨時休業となります。

 いつもカクテルバー・ネマニャを温かく応援くださりありがとうございます。

10月28日(火)まで、家族の祝い事のため臨時休業とさせていただきます。



ご不便をおかけしますが、何卒ご了承くださいませ。

どうぞよろしくお願いいたします。


2025/10/20

ミュージカル「ガイズ&ドールズ」に登場するカクテル【ドゥルセ・デ・レチェ】を再現

今週のおすすめカクテルはミュージカル 「Guys & Dolls(ガイズ&ドールズ)」に登場するカクテル【Dulce de Leche( ドゥルセ・デ・レチェ)】。

ドルチェ・デ・レチェやドゥルセ・デ・リーチェと呼んだりしますが、スペイン語なので「ドゥルセ・デ・レチェ」が一番近い呼び方でしょうか。

このカクテルにゴディバチョコレートリキュールやベイリーズを使用するレシピがありますが、それからのリキュールが誕生する前から登場しているカクテルです。

またニューヨークPDTのバーテンダー Jim Meehan氏が2008年に考案したDulce de Lecheも有名で、アネホ・テキーラ、ペドロヒメネス、クリーム、卵、グレープフルーツ、ピールをシェークしシナモンのすりおろしで仕上げたもの。

Dulce de Leche Martiniなんかも知られ、現在は様々なレシピがあるようですが、ミュージカルに登場するDulce de Lecheは、レシピが違うようです。

「ガイズ・アンド・ドールズ」は、ギャンブラーとその女性達を描いたもので、ギャンブラーのスカイが、仲間のネイサンから“指名された女を一晩で口説き落とせるか”という賭けを申し込まれるというストーリー。

このお話は、短編小説家兼詩人のDamon Runyon氏が1932から1933年に執筆した連作小説「Miss Sarah Brown」と 「Blood Pressure」を原作にしております。

1950年11月24日にブロードウェイにてミュージカルが初演となり、1200回ものロングランを記録。

1955年には映画化。以来定期的に舞台が様々な場所で長年復活しているようです。

劇中では、大物ギャンブラーのSky Mastersonと救世軍の娘 Sarah Brownの2人がキューバのハバナを訪れるシーンがあり、サラ・ブラウンが「ドゥルセ・デ・レチェ」というカクテルを注文します。

カクテルは簡単に言うとミルクセーキに、バカルディ・ラムを入れたようなもののようです。

Sarah Brownのセリフで、レシピはラムとココナッツであることを言っています。

またカクテル名のDulce de Lecheは、南米のミルクキャラメルのこと指し、カクテルの材料にはミルクキャラメル・ドゥルセ・デ・レチェが使われる。







劇中にサラ・ブラウンが注文する「ドゥルセ・デ・レチェ」には、ホワイト・ラム、ココナッツ・ラム、ミルク、ミルクキャラメル・ドゥルセ・デ・レチェをミキサーにかけて、細かめの氷を入れたココナッツの器に注いでストローを添えたもの。

レシピを再現すため家内にミルクキャラメル・ドゥルセ・デ・レチェを作ってもらいました。

砂糖とミルクとベイキングソーダを合わせてなんちゃらかんちゃら、焦がさないように弱火で煮詰めて、常に手を加えること3時間程で自家製が完成!




ネマニャの【ドゥルセ・デ・レチェ】カクテル再現レシピ

ハバナクラブ3年

バカルディ・カルタブランカ

自家製ココナッツラム

自家製ミルクキャラメル・ドゥルセ・デ・レチェ

クリーム

上記材料をミキサーにかけて、クラッシュドアイスを詰めたココナッツの器に注ぎ、イエルバブエナを飾り、ストローを添えます。

ベースのラムは、カクテルを楽しむ舞台がキューバである事からハバナクラブとバカルディの半々にアレンジしています。

甘くて美味しいドゥルセ・デ・レチェを是非お試しくださいませ!

2025/10/19

甘鯛釣りで十目

 本日はお客様と私と家内で甘鯛釣りへ。

アマダイ、イトヨリ、シログチ、ガンゾウビラメ、大鯵、ワニゴチ、メゴチ、エソなど。

多種多様で十目釣りに^ ^










お初の外道の「ダイナンウミヘビ(ダッカン)」も釣れました。ダッカンはかかると根掛かりみたいになり、電動で巻き上げると竿先がビョンビョン跳ねた動きになり、オマツリでもないし妙なうごきなので何だろうと思いました。

船長いわく毒はないけど、噛まれるの注意してとのことでした。

骨が多いようで食用にむかないみたいです。

他釣れた魚は、脂のりが良い旨みを増したものが多く秋らしさを感じました。

白甘鯛も船中2匹釣れていたようで、いつか白甘鯛の釣果を出したいと思います。

2025/10/16

1953年 第5回オール・ジャパン・ドリンクス・コンクール1位のカクテル「キッス・オブ・ファイヤー」

 1953年6月、名古屋・御園座で開催されたJBA第5回オールジャパン・ドリンクス・コンクール コクテール部門1位の作品。6000程の応募作品から最終審査8作品が選ばれ優勝となったカクテルです。

作者は東京・銀座のバーテンダー石岡賢司 氏です。

カクテル名の由来は、1952年に米国でヒットしたLoius Armstrongの「Kiss Of  Fire」からとのこと。同年に日本でもカバー曲「火の接吻(Kiss Of Fire)」がヒットしました。



レシピは、ウォッカ1/3、スロージン1/3、ドライ・ヴェルモット1/3、レモン・ジュース2ダッシュ。

シュガーリム(スノースタイル)したカクテルグラスに注ぐというもの。

本家の「キッス・オブ・ファイヤー」カクテルは、石岡賢司 氏のお孫様の宇山祐二 (ジョニー)氏が経営する東京・学芸大学駅の近くにあるカフェ&バー「tricky's(トリッキーズ)」で楽しむことができます。

ジョニー氏は、今から24年程前に桜木町のT GIフライデーズで働かれており、その頃に私の以前の職場である横浜駅東口のカクテルバー・マルソウにご来店いただいた事がありました。

そのご縁もありtricky'sにお伺いさせていただきました。

キッス・オブ・ファイヤーの考案者のお孫様のジョニー氏に作っていただいた一杯は感慨深く、感激でした。





キッス・オブ・ファイヤーは、 Cocktail Bar Nemanjaのメニューにもございます!

是非お試しくださいませ!

2025/10/13

横濱インターナショナル・カクテル・コンペティション2025結果発表

 2025年10月13日(月・祝日)、ワークピア横浜にてバーテンダーの国際大会【横濱インターナショナル・カクテル・コンペティション】が開催されました。

クラシック、フレア、クリエイティブ部門の3部門で行われ、書類選考を通過した日本、台湾、中国、グアム総勢65名の選手が出場しました。













今回フレア部門とクリエイティブ部門の審査員としてお手伝いさせていただきました。

入賞結果は以下となりました。


●クラシック部門

グランプリ 岩瀬 美加 選手 作品名「翠雨」

金賞 無量小路 美裕  選手 作品名「Blue Reverie」

銀賞 山野井 訓子 選手 作品名「花緑青」

銅賞 長濵友太郎 選手 作品名「Tropic Line」

銅賞 足立孔汰   選手 作品名「Marina Whisper」

銅賞 山野井 皇 選手 作品名「Arcana」

台北バーテンダー協会賞 清水 梨沙 選手

ベストテクニカル賞 長濱友太郎 選手

ベストテイスト賞 無量小路 美裕 選手




●フレア部門

グランプリ 飯嶋裕太(ジーマ) 選手

第2位 高橋優太(コビト) 選手




●クリエイティブ部門

グランプリ 中島ショーゴ 選手

 第2位 安孫子優 選手




フレア部門の総評を述べさせいただいております。

↓ 後日公式ホームページでも掲載となります。

https://yokohama-cocktail.com/

出場された選手の皆様、審査員の皆様、横濱インターナショナルカクテルコンペティション実行委員会の皆様、お疲れ様でした!

またご来場いただいた皆様、協賛メーカーの各社様、有難うございました!

来年もバーテンダーの国際交流の場として開催予定とのことですので、皆様引き続き応援・ご協力をどうぞ宜しくお願い致します。

本当に有難うございました!

2025/10/12

レモンサワーは1960年頃に誕生した下町カクテル

 今日はレモンサワーの話し。

日本で最も飲まれている下町カクテルではないだろうか。

本日はレモンサワー発祥とされる東京・中目黒「もつ焼 ばん本店」に訪問。ばん本店は1958年創業。

予約はできない酒場でピークタイムは数時間待ちも!ちなみに私は夕方うかがい30分待ちくらい。1人だったのでなんとか入れていただいた感じでした(^^;;

レモンサワーは、ばんの創業者である小杉正 氏が考案したもの。

1958年は東京タワーが建設されるなど、更なる高度経済成長期となり、生レモンが入手しやすくなった時代でもありました。60年代に入りお店のタンチュー(チューハイ)に生のレモン・ジュースを絞り入れたレモン・サワーを名物ドリンクとして発案したのがはじまりとか。

ばんのレモンサワーを注文すると、氷が入った中ジョッキーに高さ半分の焼酎とハイサワー・ソーダ1本、レモン1個分とスクイザーのセットが提供される。 

基本の楽しみ方は、焼酎入りのジョッキに、ボトル半分のソーダを注ぎ、絞ったレモン・ジュース1/2個分を入れるのが基本。

2杯目は「なか(氷入り焼酎のおかわり)」を頼み、残りのソーダとレモンとを加えて楽しむのがおすすめのようです。

ホッピーの様な感じですかね^ ^









ばんのレモンサワー1杯あたりのレシピは大体以下でしょうか。


宝焼酎 甲類25度 90ml

ハイサワー・ソーダ(プレーンな炭酸水) 100ml

フレッシュ・レモンジュース 30ml


氷を入れた14〜16オンス・ジョッキに注ぎビルド。

基本のレモン・サワー勉強になりました^ ^

2025/10/11

1951年 第3回オール・ジャパン・ドリンクス・コンクール1位のカクテル「スイート・オーサカ」

日本生まれのカクテルで大阪の名が使われるカクテルがあることはご存知でしょうか?
1951年に誕生したカクテル 【スイート・オーサカ】です。









このカクテルは、1951年に開催されたJBA主催 第3回オールジャパン・ドリンクス・コンクール コクテール部門1位の作品。

前年に「青い珊瑚礁」を生み出したオール・ジャパン・ドリンクス・コンクールの第3回の優勝作品として当時とても話題となったカクテルです。

レシピ

バカルディ・ホワイトラム 15ml
グランマニエ 15ml
ドライ・ヴェルモット 15ml
グレナデン・シロップ 5滴
レモン・ジュース 5滴

シェークしてカクテル・グラスに注いだものです。

コクテール部門 2位の作品は「ムーン・イン・ナイト」。レシピは今でいう「X.Y.Z」です。この時代のX.Y.Zは、まだジンベースのブロンクスをアレンジしたあのスタイルだったのかな?とも想像します。

この年にノンアルコールのソフト・ドリンク部門も行われており、1位の作品は「ドナウ河のサザナミ」でした。

スイート・オーサカ是非お試しくださいませ!

2025/10/10

1950年 第2回オール・ジャパン・ドリンクス・コンクール1位のカクテル「青い珊瑚礁」

 Blue Coral Reef

Cocktail Bar Nemanjaのメニューからおすすめカクテル【青い珊瑚礁】紹介。

このカクテルは1950年5月3日に開催された、日本バーテンダー協会(JBA)主催All Japan Drinks Concool 1位の作品。

創作者は名古屋のバーテンダー鹿野彦司 氏。

カクテル名の由来は、1949年に公開されたイギリス映画「青い珊瑚礁The Blue Lagoon」の広告ポスターの美しさから着想を得て創作されました。

当時はブルーキュラソーが入手困難だったためグリーンミント・リキュールを使って創られました。

敗戦後の1947年7月1日、日本政府はGHQ(連合国軍総司令部)の指示で「飲食営業緊急措置令」を発令し、GHQの施設や外食券食堂等の一部例外を除いた国内飲食店の営業や自由な酒類販売を禁じました。

1949年5月7日に酒類自由販売解禁に伴い、日本政府が発令した飲食営業緊急措置令が廃止され飲食店が再開されます。

第1回All Japan Drinks Concoolは、物資が整わない時代だったこともありノンアルコールで開催されている。

酒場営業解禁明けを記念する歴史的なカクテル大会の優勝作品がこの「青い珊瑚礁」です。

当時酒類を使える注目の大会であったこともあり、会場のスポーツセンターには、5000人を超える観客が集まったそうです。




レシピは、ドライ・ジン2:グリーンミント・リキュール1をシェークして、グラスの縁をレモンで濡らしたカクテル・グラスに注ぎ、桜桃をかざるというもの。

大会当日は、デコレーションにサクランボを飾られたようで5月上旬に早めのサクランボを入手するのも大変だったかもしれないなと想像します。

最近では海外のゲストや若いお客様に昭和レトロ・カクテルが響いている様で、青い珊瑚礁復活しつつあります。

2025/10/09

2025年マグロ釣りの挑戦

 今週はマグロ釣りに挑戦。

今年はここ一週間の釣果が良いのでチャレンジしました。

庄三郎丸さんのカツオ・マグロ船 朝6時出船,

釣り場は相模湾,

棚は30m。時折40mから50mも。

今回も貸し竿で挑戦。

餌釣り、仕掛けはハリス26号6m。活性が良い時は4.5mに変更も。ハリの餌はオキアミ。

庄三郎丸でもマクロの仕掛けを買わせていただきましたが、ハリス26号8mでした。

釣果を出されているマグロ釣りのプロ級の先生達はハリス26号10mを使用しているとか。

10mと長ければ長いほどマグロが警戒心持たずにオキアミを食べるとかなのですが、コマセと餌を同調させて食わせる難しさがあるようでした。


船長の指示棚から下5mlまで天秤を落とし、仕掛けを落ち着かせるために少し待ってからしゃくってコマセ撒き、1メートル巻くを3回やってから指示棚まで天秤をあわせてアタリを待つ釣り。

コマセが残ってそうなら、また5m落として2回くらいコマセが撒ける状態。

今回棚まで合わせた後に,1m竿先を下げて、そこから2mゆっくり上げて棚の高さに戻し、餌がゆっくり落ちて行くような誘いをやってみました。

この誘いにマグロ棚でアタリがわりと出たのですが、かかるのはカツオ。

大きなカツオだと60センチサイズも釣れました。

仕掛け回収中にはシイラの釣果も...







前半にカツオ5匹、後半カツオ4匹で、合計釣果はカツオ9匹とシイラ1匹でした。

前回かけたようなモワモワしたマグロのアタリは無かったですかね。

この日は船中のマグロの釣果は3匹・キメジは2匹上がっていた様子で大きなマグロは40キロほどのものが釣れましたが、コマセ撒いてしばらくおき竿していたご老人の竿が曲りヒットしていました。

道糸が250mくらい引っ張られていました。

運良くかかることもあるでしょうか。

今回も勉強になったマグロ釣りでした。

いつかマグロに選ばれる人になり、50代の体力があるうちに釣り上げたいと思います。

2025/10/01

日本生まれのカクテル 年表

● 811年 【Toso / お屠蘇】

中国の三国時代の名医・華佗が、災難厄除けのために生薬を調合して酒類に浸漬させた飲み物「屠蘇延命散」を考案。

日本には平安時代初期となる弘仁2年に中国の博士である蘇明が使者として朝廷を訪れた際に「屠蘇散(とそさん)」を嵯峨天皇に献上したのが始まり。日本では日本酒に屠蘇散を浸漬したものを「お屠蘇」と呼びました。

江戸時代には、一般庶民の正月行事の酒として定着し、江戸時代の中期になると、酒が苦手な人や女性が楽しむ甘いお酒としてみりんが人々に受け入れられるようになり、屠蘇散をみりんに浸漬して飲むようにもなりました。また、その土地ならではの特殊な酒類を使用する例もあり、熊本県では赤酒、鹿児島県では黒酒でお屠蘇をつくります。

屠蘇散のボタニカルは、甘草(かんぞう)、紅花(こうか)、桔梗(ききょう) 、浜防風(はまぼうふう) 、陳皮(ちんぴ)、茴香(ういきょう)        肉桂(にっけい)、 山査子(さんざし)、 山椒(さんしょ)、丁字(ちょうじ)の10種。

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江戸時代のカクテル


●1780年代 【Tamawari / 玉割】

江戸時代の中期から、酒屋で購入した酒をその場で飲む(居酒)人たちが増えたと言われます。酒屋に居続けて酒を飲む「居酒屋(角打ち)」で「玉割」が提供されていたようです。

蔵元が出荷前にアルコール度数を調整するために水を加えることを「玉を利かす」と呼んでおり、このことから日本酒の水割りを「玉割」と呼んだといいます。当時の日本酒原酒は、酸味が強く糖度が高いもので水で割ることで味わいにバランスをとり、低アルコールで飲むことが主流となった。玉割は、日本酒原酒20度  1 :ミネラルウォーター  3で割りアルコール5%にしたものです。





● 1850年代 【Yanagikage / 柳陰 (本直し)】 

粕取り焼酎と本みりんを半々で割り井戸で冷やし夏に飲まれていたもの。京都では「柳陰」、江戸では「本直し」と呼んだ。また大名にこのまれていたことから「大名酒」としても知られた。落語「青菜」に登場したり、1867年の第2回パリ万博に日本が出展した際に提供された日本の代表的なカクテルであった。


●1861年 【Miyozaki Highball / 港崎ハイボール】

1860年に横浜の沼地を埋め立て約15000坪の遊廓を建てました。この場所は港崎(みよざき)と呼ばれていたことから「港崎遊廓」と名付けられ、場所は現在の横浜スタジアムである。港崎遊廓最大の遊女屋は「岩亀楼(がんきろう)」と呼ばれた。

日本初となるハイボールの記録は、1861年に岩亀楼にて開催された英国守備隊主催の英国艦隊横浜入港歓迎会にて登場しました。

守備隊幹部達は岩亀楼の大広間に集まり、シガーを楽しみながらブランデー・ソーダを飲んでいたといいます。当時は港崎ハイボールとは呼ばれていない。

この時代のイギリスではブランデーのソーダ割りが人気で、ビクトリア朝時代のイギリスでは、ブランデーは心を癒し、ソーダは胃腸の調子を整えるとされておりブランデー・ソーダはシャンパン替わりとしても飲まれていました。


●1862年 【Arakichinda / アラキチンダ】 

神奈川 作者不明。横浜開港見聞誌(1862年)に登場するアラキチンダ。時代背景からアラキはジュネヴァ、チンダはポートワインを指していると推測し、当時のマルチネスやマンハッタンのレシピは蒸溜酒の分量が少ないことからCocktail Bar Nemanjaではポートワイン2に対してジュネヴァ1をステアしてカクテルグラスに注いだものを提供している。



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明治時代のカクテル


●1882年 【速成ブランデー】

明治15年にみかはや銘酒店の神谷傳兵衛 氏が、輸入した酒類を原料にブレンドしたボトルカクテル「速成ブランデー」を造る。当時流行していたコレラの予防に効果があると噂になり、人気となったと言われています。速成ブランデーは、神谷 氏が27歳の時に考案し電気ブランの原形となるカクテルとなります。


●1891年 【Bamboo / バンブー 】

横浜グランドホテルの支配人として招聘されたドイツ系アメリカ人でサンフランシスコ出身のLouis Eppinger(ルイス・エッピンガー)氏。横浜グランドホテルの新館全体の内装工事が終わった 1891年1月にエッピンガー氏が支配人に就任したことから Bamboo Cocktail(バンブー)は、早くても1891年にサーブされ始めたのではと推測します。

このカクテルは、ルイス氏が横浜に来られる前の1886年に、ニューヨークで流行している様子が新聞記事になっており、1886年9月11日カンザス 州の「 Western Kansas world., September 11」。1886年9月19日の「St. Paul daily globe., September 19」でレシピが掲載されており確認ができます。

ただニューヨークでのレシピは、ドライ・シェリー、ヴェルモット・ロッソ、オレンジ・ビターズをステアしたもので、ヴェルモットをドライに変更し提供をはじめたのは横浜からと思われる。


●1893年 【Denki Bran  / 電気ブラン】

電気の供給会社「東京電灯会社」が設立された明治16年から神谷傳兵衛 氏が速成ブランデーのレシピを少しづつ改良し、1893年に「電気ブラン」を発売させる。レシピは、グレープ・スピリッツ(薬用として売られていた輸入ブランデー)、ワイン、ジン、ヴェルモット、キュラソーをブレンドしたボトルカクテル。当日アルコールは45度であった。


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大正時代のカクテル

●1912年 【五色酒】

五色酒には当時、亜米利加(アメリカ)、 佛蘭西(フランス)スタイルのレシピもあったようですが、材料が充分に揃わないことからオリジナルの五色酒があったようです。

大正元年、人気のプースカフェである五色酒を女性が飲んだことで非難された「五色の酒事件」がありました。

文芸雑誌「青鞜」社員である尾竹紅吉(おたけ べによし)氏が、広告の営業でバー「メゾン・ド・鴻ノ巣」に訪れた際に、五色の層状になった美しいプースカフェ・スタイルのカクテルを体験しました。

紅吉はこの出来事を雑誌のコラムに記載しましたが、新聞各社は紅吉が「五色の酒」を飲んだという事実を "新しい女、五色の酒を飲む" といった扇情的な見出しで報じました。当時女性の飲酒は常識から外れていると見なされたため、女性がバーでカクテルを楽しんだことを酒を強く非難し、世間の話題となった事件となりました。


1913年 【ミリオンダラー 】

1913年に当時の横浜グランドホテルの支配人であるH.E.Manwaring(マンワリン)氏が、上海から持ち帰り横浜グランドホテルのバーのメニューに導入したカクテルであった様です。マンワリン氏は、1905年にアメリカからルイス エッピンガー氏の後任の支配人として招聘された人物です。マンワリン氏 が当時上海で流行していたカクテル「ミリオンダラー」 をAstor House Hotel(アスターハウス ホテル)で飲んだといいます。日本で提供されているレシピは、元のものを少しアレンジしたものと考えられます 


●1920年代前半 【Line Cocktail / ライン・コクテール】 

鹿児島出身のバーテンダー前田米吉氏が27歳(1924年)の時に刊行したカクテル本「コクテール」。そのコクテールに掲載されているカクテルで、東京 四谷カフェー・ラインの前田米吉 氏 作と推測。

カフェー・ライン退職後の昭和初めには、銀座に酒類販売店を開業。洋酒の取り扱い他、ボトル・カクテルも販売していた。


●1920年代前半 【Ginza Strip / ギンザ・ストリップ】

1920年代に銀座ののバーで考案されたカクテルで、作者は不明である。レシピは、日本酒ベースのマンハッタンです。



●1922 ~1923年頃 【Mt.Fuji / マウント・フジ】

創作時期は1922から1923年頃のようで、1924年には提供されていたことは間違いなさそうです。このカクテルは、帝国ホテルのチーフ・バーテンダーの大阪登章氏が考案。帝国ホテルの支配人である山口正造 氏作説もある。



●1923年 【チェリー・ブロッサム】

1923年に創業した横浜のバー「パリ」の田尾多三郎 氏が考案したカクテル。カナディアン・クラブのキャンペーンのために創作したのがはじまり。カナディアンウイスキー、チェリーブランデー、ヴェルモットロッソ、マラスキーノなどで作られる。

お店が社交場として一番華やかだった戦前のカフェ・ド・パリ時代にカナディアン・クラブのキャンペーンをきっかけに創作したもので、1927年の世界カクテル・コンテストで優勝したカクテルでもあることを田尾多三郎氏の奥様の幸子様から聞いた事があります。

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昭和時代のカクテル


●1931年 【Sunday Cocktail / サンデー・コクテール】

1931年に開催された寿屋カクテル・コンテストの入選作品。作者は浜田晶吾 氏。




●1946年 【Kaikan Gin Fizz / 會舘ジン・フィズ】

東京會舘のチーフバーテンダー本多春吉 氏考案。1945年8月15日終戦。その年の12月に連合国軍最高司令官総司令部/GHQ の高級将校クラブとして接収された東京會舘は "American Club of Tokyo" と呼ばれ受託営業が始まりますが、12月は開設準備期間で休館しており、翌年1946年に「株式会社 東京會舘」と商号を変更し再出発。この年に會舘ジンフィズが誕生する。将校クラブとしては1952年まで重用され、その期間に東京會舘で最も飲まれていたカクテルでした。



● 1948年 【Hoppy / ホッピー】

戦後は物資が不足し、ビールが高級品なため入手困難だったことから、ホッピービバレッジ株式会社の創業者である石渡秀氏がビールの代用品としてアルコール約0.8%のビールテイスト清涼飲料水「ホッピー」を開発。 1948年7月15日に東京・赤坂で製造販売が開始となる。この年から赤坂の闇市で安価な焼酎をいれて飲まれるようになり、粗悪な酒や焼酎を美味しく飲める割り材として支持が高まり「焼酎の割り飲料」の先駆けとして広く認知された。翌年の酒類自由販売解禁とともに更に広く知られました。ホッピーはグラス(15オンス)に氷無しで、キンミヤ焼酎25度 1(70ml)に対してホッピー 5(瓶1本 360ml)がベストな割合と言われている。


●1949年 【Shibuya  Town / 渋谷タウン)】

渋谷バー門の創業当時からのオリジナルで、初代オーナーの深澤憲二 氏作。




●1949年 【Tennessee Waltz / テネシー・ワルツ】

昭和24年の雑誌「酒と音楽」でJBAの副会長であった長谷川幸保氏が発表したカクテル。


●1949年 【チューハイ】

1949年5月7日に酒類自由販売解禁に伴い、日本政府が発令した飲食営業緊急措置令が廃止され、ビアホールや酒場が再開。東京都墨田区・葛飾区を中心と する下町の大衆酒場の店主らに より「焼酎ハイボール」が提供され「チューハイ」と呼ばれる。


●1949年 【Hois Highball / ホイス・ハイボール】

ホイスは1949年の飲食営業緊急措置令廃止後に、後藤商店が芝公園時代に開発した下町カクテル。焼酎3:ホイスの素2:炭酸水5の割合で作る。ホイスの名前の由来は、当時は高級品であったウイスキーをもじりホイスキーからきており、それを略して「ホイス」と命名したもの。



●1950年 【青い珊瑚礁】

1950年5月3日に開催された、JBA主催 第2回All Japan Drinks Concool コクテール部門1位の作品。鹿野彦司 氏作。この年のソフト・ドリンクス部門1位の作品は「ペアー・フラワー」で創作者は池田光明 氏でした。



●1951年 【スイート・オーサカ】

1951年に開催されたJBA主催 第3回All Japan Drinks Concool コクテール部門1位の作品。レシピはバカルディ・ホワイトラム 15ml、グランマニエ 15ml、ドライ・ヴェルモット 15ml、グレナデン・シロップ 5ダッシュ、レモン・ジュース 5ダッシュをシェークしてカクテル・グラスに注いだもの。この年のソフト・ドリンクス部門1位の作品は「ドナウ河のサザナミ」でした。




●1951年 【Koujo No Tsuki / 荒城の月 】

1951年 5月21日に東京の日本劇場で開催されたJBA.全日本コクテールコンクール 第1位の作品。ジン1/3、デリカワイン白1/3、レモンジュース1tsp、卵白1/2個分をシェークし、カクテル・グラスに注ぎ、鶉の卵黄1個分とグリーン・ミントリキュールを3ダッシュをドロップしたショート・カクテル。


● 1952年 【Ganso Shitamachi Highball /元祖下町ハイボール】

1952年に天羽飲料製造が焼酎に割るための甘味が無いリキッド「天羽の梅Aハイボール赤ラベル」の発売により下町カクテルの「元祖下町ハイボール」通称「(元祖ハイ)」が誕生し広く下町酒場で飲まれる。推奨の割合は、甲類焼酎2:天羽の梅Aハイボール赤ラベル1:炭酸水3の割合である。現在でははレモンスライスなど入れて楽しまれる。



●1953年 【Satsuki no Kaze / 五月の風】

1953年に銀座「馬車屋(後の鴻之巣)」の長谷川幸保氏が考案した抹茶入りのジンフィズ。


●1953年 【Kiss of Fire  / キッス・オブ・ファイヤー】

1953年6月26日に名古屋の御園座で開催されたJBA主催の第5回 ジャパン・ドリンクス・コンクールのコクテール部門1位の作品。作者は東京・銀座のバーテンダー 石岡賢司 氏。ソフト・ドリンク部門1位の作品は「ピンク・フラワー」でした。

カクテル名「キッス・オブ・ファイヤー」の由来は、1952年に米国でヒットしたジャズの王様Loius Armstrongの名曲「Kiss Of  Fire」からとのこと。同年に日本でもカバー曲「火の接吻(Kiss Of Fire)」がヒットしていました。

レシピは、ウォッカ1/3、スロージン1/3、ドライ・ヴェルモット1/3、レモン・ジュース2ダッシュ。

シュガーリム(スノースタイル)したカクテルグラスに注ぐというもの。

考案者の石岡賢司 氏のお孫様の宇山祐二 (ジョニー)氏が経営する東京・学芸大学駅の近くにあるカフェ&バー「tricky's(トリッキーズ)」では、キッス・オブ・ファイヤーがシグネチャーとして提供されています。




●1954年 【フラワー・サントリー】

JBA主催の第6回 ジャパン・ドリンクス・コンクールのコクテール部門1位の作品。


●1954年 【Aka / 赤】

赤は1954年に、京都市下京区二人司町のお好み焼き「やすい」で考案された京都の下町カクテルです。宝焼酎、赤玉ポートワイン、サイダーで作られる。別名「ばくだん」でも知られ、ばくだんのルーツでもあるカクテルです。




●1956年 【Gin Lime  / ジン・ライム】

1956年に銀座でバーテンダーをしていた馬田浩二 氏作。馬田 氏のジン・ライムはドライ・ジン60ml、ライムコーディアル15mlのロックスタイル。カットライムが絞られ入れられますが、これはフレッシュ・ライムが入手しやすくなってから加えられている。




●1956年 【Sasameyuki / 細雪】

寿屋第1回ホーム・カクテル・コンクールでグランプリに輝いた作品。作者は森川佳典 氏。


●1957年 【オーシャン・スペシャル】

1957年に開催されたJBA主催 All Japan Drinks Concool 男子ショートドリンクス部門1位の作品。この年の男子ロングドリンクス部門1位の作品は「天然の美」。婦人部ロング並びにショートドリンクス部門1位の作品は「ステンガラージン」でした。


●1958年 【Yukiguni / 雪国】

山形県酒田市の喫茶バー・ケルンの井山計一 氏作。1958年寿屋第3回ホーム・カクテル・コンクールのグランプリ作品。井山氏がコンクール受賞時のレシピは、ヘルメスウオツカ(100プルーフ) 30ml、ヘルメスホワイトキュラソー 15ml、トリスライムジュース 7mlをシェークし、上白糖でスノースタイルにしたカクテルグラスに注ぎ、ミント・チェリーを沈める。



●1960年代 【カミカゼ】

1960年代に横須賀で飲まれていたと聞いたことがあります。その頃はウォッカに少量のコーディアルライムを加えたショットであった様で、飲めば帰って来れなくなるショットと言われ、神風特攻隊を彷彿とさせたことからのネーミングとされる。


●1960年代 【レモン・サワー】

1958年創業の中目黒の「もつ焼き ばん」の創業者である小杉正 氏が考案したもの。1958年は東京タワーが建設されるなど高度経済成長期となり、生のレモンが入手しやすくなったことで、60年代に入りお店のタンチュー(チューハイ)に生のレモンを絞って入れたレモン・サワーを名物ドリンクとして発案。



●1962年 【Siberian Tool Kit / シベリアン・ツール・キット】

1962年にJimmy Stockwell (ジミー ストックウェル)氏が、横浜・本牧のイタリアン・ガーデン(現在のIG)で考案したカクテル。現在のIGに名前を変更したのは1997年で、その35年前にシベリアン・ツール・キットが創作されている。このカクテルはカナダのエッグノグと呼ばれた「Moose Milk」を簡単なアレンジしたものと思われる。レシピは、ウォッカ、カナディアン・クラブ、カルーア、バニラアイス、クリームで作られる。

ジミー氏は、1960年に軍に入隊し、厚木基地に配属となる。軍人時代は親戚が経営していた本牧のイタリア・ガーデン(現在のIG)でアルバイトをしていました。イタリアン・ガーデンの2代目オーナーであるハリー・コーベット氏(1958年〜1965年)の時代にジミー氏はマネージャーを務めていた経験もあります。1960年代後半に戦争中のベトナムへ赴き、72年に横浜へ戻り、横浜中華街にWindjammerを開店させる。




●1964年 【マイ東京】

1964年に東京五輪を記念してサントリーが主催したカクテルコンクールの特選受賞作品。創作者は上田芳明氏。このサントリーカクテルコンクールは、北海道、東北、関東、中部、近畿、中国・四国、九州の7ブロックに分けて、それぞれのブロック大会をおこない、翌1965年1月22日に全国決勝が開催されました。ベースは角瓶、オレンジキュラソー、トリスライムジュースを加えシェーク。グラスの縁をシュガーリム(スノースタイル)にしたもの。


●1964年 【Apollo / アポロ】

横浜・曙のアポロのオリジナル・カクテルで創業当時から提供している。ウォッカ、ウゾ、グレナデンシロップなどで作られるショート・カクテル。創作者はオーナー・バーテンダーの石原清司(チャン)氏。




●1966年 【ブルドッグ】

1966年冬に鎌倉のMike's Barの榊原直哉(通称マイク)氏がウォッカのグレープフルーツ割りに「ブルドッグ」と名付けた。レシピは氷を入れたロック・グラスに、ウォッカ50度 60ml、フレッシュ・グレープフルーツ・ジュース 90mlをビルドしたもの。



●1967年 【スカイダイビング】

1967年に開かれたANBA 主催のカクテル・コンペティションの優勝作品。作者は大阪の渡辺義之氏。


●1967年 【京都の夜】

1967年のヒット曲、愛田健二氏の「京都の夜」という曲の発表と共に創作されたカクテルと考えられている。少なくとも70年代までは流行していた。


●1969年 【Indulgence / インダルジャンス】

1969年に東京會舘で開催されたカクテルコンクールでの優勝作品で、創作者は菊池国和 氏。レシピは、ウォッカ1/2、シャルトリューズ・ジョーヌ1/3、ライム・コーディアル1/6をステアしてカクテル・グラスに注いだもの。

.●1970年 【サン・エキスポ】

大阪万博で開催された日本バーテンダー協会(JBA)主催による「EXPO’70 世界コクテールコンクール」のロング・ドリンクス部門グランプリ、です。コンクールの応募は、国内約9000件、海外20数カ国から10000件余りの応募があり本選には30人にが選ばれました。グランプリは神戸「 SAVOY 」の小林省三  氏。ショート・ドリンク部門銀賞は「エキスポ・カーニバル」、ロング・ドリンクス部門銀賞は「エキスポ70」が選ばれました。


●1972年 【ジャック・ター】

1972年に横浜中華街のバー「ウィンドジャマー(Windjammer)」のオーナー、ジミー・ストックウェル氏が考案したカクテル。初期のレシピは材料が4つで、ロンリコ151ラム、サザンコンフォート、コーディアル・ライム、クリーミーヘッド(アルブミナ のようなパウダー)をスピンドルミキサーにかけてクラッシュドアイスを詰めたロックグラスに注ぐ。カットライムをグラスの縁に飾り、シップスティック・ストローを添える。クリーミーヘッドは、ジャック・ター全体のアルコール濃度が高いため乳化しないことから外され、現在のレシピとなっている。



●1972年 【Sapporo / サッポロ】

札幌「BAR やまざき」の山崎達郎 氏が1972年札幌オリンピック開催に合わせて考案したカクテル。

1981年ジュネーブで行われた国際カクテルコンクールで特別賞を受賞した作品でもあります。



●1973年 【カフェ・ド・トーキョー】

1973年ANBAカクテルコンペティション優勝。第13回ICC国際大会第3位の作品。作者は吉田貢 氏。


●1976年 【シクラメン】

国内でテキーラ・ベースのカクテルで有名になったこのカクテルは、第5回 HBC創作カクテル・コンペティション第3位入賞作品で、創作者は東京の京王プラザホテルの井上訓一 氏である。テキーラ1/2、コアントロー 1/6、フレッシュ・オレンジジュース1/6、フレッシュ・レモンジュース1/6、グレナデンシロップ1tspをシェークして、カクテルグラスに注ぎ、レモンピールを絞る。創作者は中川訓一 氏で紹介され、グレナデンはドロップしたレシピで作られたりもしますが、これは稲 保幸 氏著の「洋酒とカクテル入門」に記載されている内容からと思われる。




●1976年 【プレリュード・フィズ】

カルピスを使用した有名カクテルの一つで、第5回 HBC創作カクテル・コンペティション第5位入賞作品。創作者は、東京エアーターミナルホテルの宮崎幸一 氏。


●1980年 【ピュア・ラブ】

1980年に開かれたANBA カクテル コンペティションの優勝作品。作者は上田和男 氏。


●1980年 【ソル・クバーノ】

神戸市「サヴォイ北野坂」の木村義久氏が考案、1980年第1回サントリー・トロピカルカクテル・コンテストでグランプリを受賞。


●1981年 【照葉樹林】

照葉樹林は、1981年に「サントリー烏龍茶」が新発売された際に福西英三氏がレシピ開発されたもの。


●1984年 【オータム・リーブス】

1984年に開催されたサントリー・カクテル・コンペティションのグランプリ受賞作品。作者は大庄司雅彦 氏。


●1984年 【Bais Sour / バイス・サワー】

正式名称は「コダマ・バイス・サワー」。
バイスサワーは、1984年に東京・大森が発祥地で、株式会社コダマ飲料の二代目代表取締役の池澤 友博 氏によって考案されたもの。コダマ飲料の5番目となるフレーバーが紫蘇エキスと林檎果汁を主原料とした割材「バイス」である。ピンク色は紫蘇の色素によるもの。ネーミングは梅酢ではなく、「ホイス」の様にヒットしたらよいなという願いが込めて名付けられたもの。
バイスサワーの原液を使用する場合の作り方は、氷を入れたグラスにバイス原液30ml、キンミヤ焼酎25% 90ml、炭酸水170mlがベストな比率だとされています。
コダマ・バイス・サワー瓶の場合は、キンミヤ焼酎25% 90ml、コダマ・バイス・サワー業務用瓶 1本(200ml)の割合。


●1988年 【5517】

銀座三笠本館 BAR 5517のオリジナル・カクテル。1988年に5517のチーフ・バーテンダー稲田春夫 氏作。5517のオリジナルには、「5517 No.1」、「5517 No.2」、「ザ・ギンサ」などがありました。


●1880年代後半 【スプモーニ】

スプモーニは、サントリーがカンパリ販促のために創作したカクテルで、当時イタリア発と紹介した。


●1988年 【プリンセス・ダイアナ】

1988年に横浜・石川町のSoul Bar Motown のオーナー・バーテンダー芦田 守史 氏が考案したカクテル。カシス版のスプモーニのようなカクテル。



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平成時代のカクテル


●1990年 【インディアン・デスロック】

インディアン・デスロックは、横浜・石川町にあったラコタ(Dakota)で1990年6月頃に石山照満 氏が考案者したカクテルです。

ラコタが女性誌の取材を受けることになり、名物カクテルを作ろうと創作したもの。


石山 氏は、プロレス好きとの事もあり、カクテル名はプロレス技名から着想しましたが、カクテル名のスペルは「Indian Death Rock」で、技の固の"Lock"ではなく、岩を意味する"Rock"にアレンジしている。

インディアンは、死者の魂が石となると信じており、カクテル名は「インディアンの死の石」を採用したとのこと。

正しいレシピは以下です。

スピリタス 15ml、カシス・リキュール 15ml、コアントロー 15ml、レモン・ジュース 15ml、トニック・ウォーター  30ml、トニック・ウォーター以外をシェークして、クラッシュアイスを詰めたロックグラスに注ぎ、トニックウォーターを加えビルド。カットレモンを絞って落とすまでが基本レシピ。