2026/11/01

日本のバー誕生の地 横濱の話㉔ ゼブラクラブと横浜の伝説のバーテンダー 金山ニ郎 氏

 本日は、横浜にあった米軍NCOクラブ「ゼブラクラブ(ZEBRA CLUB)」と、ゼブラクラブとも関係が深かった横浜の伝説のバーテンダー金山ニ郎 氏のお話しです。

1946年2月16日、米軍は加賀町警察署の向かいにあった「東京銀行ビル」(横浜市中区山下町176番地)を接収しました。敷地面積111坪(約370㎡)、延床面積420坪(約1400㎡)のこのビルを改装し、約3ヶ月後に下士官クラブ(NCO)である「ゼブラクラブ(ZEBRA)」を開設しました。

クラブ名の由来は、下士官の階級章の縞模様がシマウマに似ていたことに由来すると言われています。



ゼブラクラブは1955年9月9日に返還されるまでその場所で営業し、その後、現在の神奈川県民ホールがある場所(中区山下町3番地)へ移転しました。移転前のゼブラクラブは、日本人だけでなく、米軍の黒人兵にとっても立ち入り禁止(オフリミット)の空間でした。

金山二郎 氏は、終戦に伴い、陸軍航空兵学校から横浜に戻りました。そして、進駐軍のクラブで働いていた叔父の誘いを受け、18歳の時に開店当初のゼブラクラブへ従業員として勤め始めます。

米軍施設での勤務だったため、採用にあたっては非常に厳しい身辺調査や思想チェックが行われたそうです。

ゼブラクラブの営業時間は午前11時から午後11時までで、米軍の下士官たちに食事や酒、バンド演奏やショーなどの飲食と娯楽を提供していました。比較的規模の大きなクラブだったため、その職種は以下のように多岐にわたり、すべて日本人が就いていました。

通訳、経理、総務、バーテンダー、コック、ウェイター、ウェイトレス、ボイラーマン、チェックルーム(クローク係)、キャッシャー(レジ係)、ジャニター(雑用係)、ガードマン、ドライバー

これら多数の日本人従業員を、日本人とアメリカ人のマネージャーが統括していました。

後にバーに配属となった金山氏は当時まだカクテルに関する書籍を容易に入手できなかったため、米兵から教えられたカクテル作り方をメモして覚えていったそうです。

かつてゼブラクラブがあった場所は、現在では駐車場へと姿を変え、当時の面影は残っていません。

かつてのインタビューで金山氏は、「まだ復興もしていないのに、建物の中だけは立派でね。まさに別世界でした」と語る。

ゼブラクラブと専属契約を結んでいたバンドマンの富山 実 氏も「ものすごい高級感があり、誇りを持って働ける職場だった」と当時を振り返っていたそうです。

クラブの玄関はまさに「アメリカ」への入り口であったとか。玄関はシマウマのゼブラ柄の絨毯、入り口の正面にはレジ(キャッシャー)。開店当初は現金の代わりに軍票(軍用手票)が使われており、兵士たちはここで酒や料理のチケットを購入していた。その後、軍票が使われなくなってからは席に着いたまま精算するアメリカンスタイルに変わりましたが、チップを支払う必要はなかったそうです。

 1階に「メインバー」があり、酒類やカクテルを提供する場所としては館内で最も広いスペースであったようで、金山 氏はこちらでバーテンダー を務めていらっしゃいました。このバーでいち早く、日本でトマト・ジュースのビール割りの「レッドアイ」を提供されていたようで、金山 氏が考案したカクテルだったのではないかという説も語られました。

 2階は、「ダイニングルーム」で主に食事を提供するフロアで、同階にキッチンもありました。

3階は、「娯楽フロア」男性専用のスタッグバー、バンド演奏やショーが催されたボールルーム、そしてシャッフルボードというゲームができる場所があった。

屋上は、「ルーフガーデン」で、夏になると隣の建物の屋上に出ることができ、そこでもバンド演奏が行われていたとか。

ゼブラクラブは華やかな空間として、米軍兵たちに深く愛されていたようです。